なるようになる夏と旅 Part5〜再び大歩危/東京に戻る

朝、窓を開けると犬の甘える声がした。
暗くて気付かなかったけれど、この民宿は建物のはざまに犬を飼っていた。大きい秋田犬。
わたしをひたと見つめる、顔をかくしてまた覗くと、ひたと見つめてる。
たまらないなあ〜と喜んでいると、ザッバーと犬小屋に水をぶっかけて掃除するおばあちゃんがみえた。
やっぱりたくましい人だと思った。
犬はかまわずおばあちゃんに甘え、ボウルに入ったえさをもらってちぎれそうにしっぽをふっていた。


民宿を出て、目をつけていた近くの喫茶に入る。ログハウス風のおしゃれな店。
モーニングの時間帯は、阿佐ヶ谷でもおじいちゃんだらけだけど、ここも同じだ。
老人たちがつぎつぎと、入れ替わり立ち替わり来ておしゃべりしている。
他愛ない話をきりなくするのは私達もおなじで、久しぶり珈琲を飲んだ気がしてほっとする。


すこしぬけると川にあたるようだとわかって、当てずっぽうに散歩した。
大歩危につながる川で、また川遊びが出来るかと期待したけれど、川辺の先はダムだった。
ぜんぜん人の立ち入れない湿原緑地帯。
道の駅ならぬ川の駅で休んで、畑帰りのKさんと合流して、ふたたび大歩危へいく。


町の人たちの手作り妖怪がたくさんいるという妖怪ミュージアムに行った。
手作り妖怪もたのしかったけれど、この地に残る伝説がおもしろく、暗く質素で怖ろしい感じは
遠野の昔話とほとんど同じ手触りがした。日本の山間地帯の気候、自然への畏敬の念を恐怖で示した物語。
このような民話や、お能泉鏡花や古い怪談に、ここ何年かとても心惹かれるのはなぜだろう?
ただやはり大歩危は陽気だからか、ぞわっとするような民話などはすくなく、それよりもみんなが笑える
ゆかいななりの妖怪をたくさん作って置いていた。
これはもう東北と四国の気候のちがいだと思う。


妖怪ミュージアムは、なぜか石の博物館というのと併設していて、おまけに世界の昆虫展までやっていて
なんだかよくわからないノンポリシーの展示館だけれど、とてもすてきなところがある。
外のオープンテラスに出ると、眼下に大歩危の渓谷がとてもいい具合に見下ろせるのだ。
川の風が吹いてきて、座っていくらでもぼんやりしていられる。
すこしおしゃべりしながら、川とひろがる山々と、風がとても気持ちよかった。
車でちょっといくとこんな場所があるなんて、本当にいいなあ。
Kさんは移住以来ばたばたしていて、こちらに住んでゆっくり大歩危を眺めるのは初めてかも、といった。
彼女の人生はこれからどう変わってゆくんだろう。


夕方にぴかちゅう列車に乗り込み、また岡山で乗り換えて、ぐっすり眠ったら東京に着いていた。
東京は夜11時ごろ、時差などないけどそう書いてしまうほど、がらりと世界が変わって感じる。
まるで違う国みたいに。
このあいだ京都のお葬式から帰ってきたときも、Uちゃんと一緒だった。二人で東京駅の中央線にのり、
きょうとまったく同じことを言い合って、あまりの光景に二人で笑うしかなくて大笑いした。
「東京って変だよね…!ぜったい変だよ!」
中央線、座る向かいの一列全員が携帯電話を必死にいじっている。まるで命綱のようにして
穏やかではなくせっぱつまった顔で、もしくは泥酔した様子で。ふつうの人がいない。
どんよりとした空気が満ちていて、なんだかそれは派手に病んでいる光景にみえた。
あたしも早く逃げよう〜っと。とUちゃんは軽やかに言った。あたしもあたしも〜、といって二人でわらった。


東京にもどった翌日から、星野道夫さんの「旅をする木」を読み始めた。
旅のあいだに星野道夫さんの話をしたのが残っていて、そうだ今だと思って手にとったら本当にぴったりだった。
すっと自然が身体にしみる、すばらしい本。星野さんがアラスカで感じてかんがえたことは、
わたしが大歩危に行ってかんがえたことに通じる普遍性がある。
東京に戻って時差を感じながら、時差あってもべつに調整しなくてもいいんじゃないかな、と思いながら
忙しく仕事するけれど、心はゆったりする。この本の愉しさが、大歩危と東京のわたしの時間を地ならししてくれる。
今日読んでいたら、今のわたしの気持ちをそのままあらわしている文章があって、すごくうれしかったので書きます。


―ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。
 日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、
 天と地の差ほど大きい。

旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)