Living in the material world

ながらく続いた会社員ディレクター生活を捨てて、ひと月が経とうとしています。
会社という後ろ盾を失ったことのなにもなさは、わたしを完全に自由にも臆病にもして
そして会社に縛られて思いどおりに望むものをつくれなかった苦しみや、
望まない人間関係や規則の継続を手放したこと、その苦しみの皆無におどろきながら
日々の皮膚感覚が総入れかわりをしている。わたしは今その途上にいます。
ときどきもやっとしたり、不安になったり、そういう私の抑揚とおかまいなしに日は昇り
少しずつ死ぬ日へと近づいていくんだなあと思う。


さあ、どうしていこうか。
そう考えることもすくなく、流れにまかせていると、こんなにひまでいいのかなと戸惑う。
慣れてくるとなまけるくせもつき、だんだんよくわかんなくなってくる。どうしていこうか?
今日、マーティン・スコセッシ監督によるジョージ・ハリスンの映画を見に行きました。
近所でやってるのに、早起きができなくて、きょう起きれなかったらやめようと思っていた。
だけど、ばっちり8時半に目覚めた。ああ、運命なのかもしれないな、と確信をして吉祥寺へいく。
それで、映画が始まってすぐに、わたしは自身の状況がはっきりわかった。
「怪我を治そうとしている猫」なのだ。猫は怪我をすると、どんな性格の猫もおなじ状態になる。
だまってうずくまって、顔はしゃんとしてるのだけど、なにしても強く反応しない、けっして怒らない。
長年の猫の謎、怪我したときの静けさ。心がここに在りながらべつの角度を向いていることの理由が
この映画をみてわかってしまった。
神さまに身をゆだねている。神さまと一緒に、静粛に過ごしているからだ。
猫だったらそれは神様というより、自然、ということになるのだろうけれど。
どうして、そう思ったんだろう?ジョージ・ハリスンの映画がはじまってすぐに、なぜ?
猫の話はひとつも出てこない。
つまり、猫はわたしの心で、神さまはスコセッシ、いや、この映画そのものってことなのだ。
わたしはおとなしく、うずくまって映画に埋もれた。


会社を辞めてからひと月、頻繁に映画をみにいっている。すばらしいもの、私には合わないもの。
このような気持ちになったのははじめてで、ああ、そうだ私はこうやって映画にそばにいてもらい
生きる力をたくわえていたんだっけと思い出した。みるみる心が満ちていく。
きっと日々の心の変化と、ちょうど今日のこのときに、タイミングがぴったり同調した。
幸福な時間をすごし、わたしは自身の不安を捨ててきた。


ジョージ・ハリスンは根っからやさしく、明るいひとだ。
ビートルズの中で一番、すなおで単純な明るさをもっていると思う。それは歌に現れている。
名声や金にまったく無頓着で、若くして大金を得て、金はけっして心を満たさないと知り
心は神へ、精神の鍛錬へと向かう。洗脳でも思いつめるでもなく、ただ心のままに。自由に。
音楽をつくり、生きる。
スコセッシは誠実にモンタージュする。ジョージの心が浮き上がるように、ビートルズの狂乱と
写真に映るかれらの精神の状態をつたえる。時代の空気、台風の目のなかの静けさ、閉塞感。
精神の変容、それぞれの成長、ジョージの精神の旅の道程。
3時間半は短い。もっともっと、ほんとうは丹念に徹底的にやりたかったはずだと思う。
ジョージという巨大な精神を描くには、きっと最低でも6時間は必要だ。
けれど、心を震わせる瞬間があればそれでいいのだ。映画は、その一瞬のために2時間とか
6時間とかあるのだ。とわたしはむかしからその思いは少しも変わらず、きっとだから
批評家にもシネフィルにもなれないんだなと思うけれど、改める気はないし変わりようがない。
きっと映画とは一生そうやって付き合っていく。わたしは猫で映画は神様だ。
そうわかってしまった。


心を震わせた瞬間をここに記しても、至るまでの二時間が欠けているからさっぱり伝わらない。
ただ、こう書けばわかってもらえるかもしれない。ジョージはこういう人だという映画だった。
ビートルズの終わりに近いころの、とても有名な歌
Here comes the sun Here comes the sun,It's alright.
日が昇る、日が昇る、大丈夫さ。


わたしはひとりで泣いていた。だからここは泣く場面じゃない。けれど映画もわたしも、それでいいのだと思う。
ジョージは何度も言う。この世から旅立つまでの時間、神の存在に気付き、しっかり生きていけばいい。
最後に流れたのは神への愛を謳う歌だった。
そしてそれは、監督からの、ジョージの人生に関わった全員からの、ジョージへのラブソングになっていた。


こうして今も文章を書いている間に日付がかわり、大晦日になり、新年を迎えようとしています。
来年は早々に、金沢へ行こうと思っています。神にささげる特別な能楽演目「翁」を見に行くために。
この演目だけはどこで演じようと、三番叟の間は会場の出入りを禁ずる、完全なる神事です。
ずっと憧れていた、いまならそれを見に行くことができる、だって
日が昇る、日が昇る、大丈夫さ。
ジョージと映画がそう言うから。


来年はもうすこし頻繁に書きます。明日は第九が流れる夜、お寺の鐘が鳴る夜です。
神はどこにでも居る。よいお年を!