フェイスブック

仕事で必要にかられて、フェイスブックに登録してそのまま放っておいた。
あるときふいに、中学高校の同級生、卒業してすぐシカゴに行ってしまった友人から
友達リクエストがきてとてもびっくりした。
その子はもうほんっとうに美人で、圧倒的に美人で、先日彼女のことを思い出していたばかりだったから
これまたびっくりだった。
シカゴに行ったきり連絡がとぎれていた彼女と、こんなところで再会するなんてもう嬉しくて
よくわからずに「承認」ボタンを押した。するとそのあとすぐに、だだーっと同級生たちが増えた。
写真がある子もない子も、たった数行のやりとりで、変わってないなあ〜と思う。
ほとんどが10〜20年ぶりなのに、その言い回し、つっこみかたの間合い、反応する感性なんかが
時をこえてもな〜んにも変わってないのだから、なんだかすごいことに気付いてしまった気分だ。
そのひとらしさ、というものに、変化などありえないということだ。


わたしの通っていた中学・高校は、エスカレーター式に6年間つながっている私立の女子校だ。
男性たちによく、女子校っていうと陰湿ないじめとか多そう、と言われるのだけど
校風なのか、いじめもグループ抗争も起きようがない、気楽で楽しくて笑ってばかりの日々だった。
みんな勝手気ままで、気の合うグループというのは自然とできていたけれど、それにこだわらず
いろんなつきあいが起きては交わり、感覚だけで接して、その場に居合わせた子たちとあそんでしゃべって
ばかみたいに笑って笑って…今思うとそれは、とてもラッキーなことだったんだとわかる。
女性の陰湿なふるまい、というのに遭遇するのが、この6年間だけぽっかりと、皆無だったからだ。
それは身近に男がいなかったから、というのもあるかもしれないけど、それ以前にたぶん彼女らがみんな、
どこかしらかしこく、自立した人たちだったからだ。
それが、この長い間のブランクを経ての再会によく表れていて、とてもうれしかった。
結婚している子は超変わらずにたのしそうだったり、へとっと疲れてもすぐ元気になったり
主婦しながら好きなことを勉強してたりする。
独身の子はまあ、とっても自由だ。会社をやめて自分のやりたいこと、ダンスや翻訳業、音楽、演劇、
大学院に入りなおして学んでる子、小物のデザインやってる子。
たとえば、これ食べたとかいうことも、たれ流しではなくて興味深い食情報だったりする。
目線がはっきりしていて、ああ、らしいなあとか、今こういうのに興味もってるんだ〜へえと意外に思ったり
けれどその意外さが、わたしの知らない何年かにできた「良い」広がりだと、しっかり思えるから、とてもうれしい。
みんな、ゆがんでいない。すいすいとスイマーのように、この生きづらい社会で(生きづらさに怪我せずに)
のびのび泳いでる。それは、とてもとてもうれしい。


ツイッターは、きちがい沙汰の速度感と、無駄な言葉のたれ流し、あてつけめいた陰湿さの横行にうんざりしたし
ミクシイは、閉塞的で縛られるようなめんどくささや、やたら出会いを求める顔のみえない人たちの気味悪さについていけなかった
だいたい足あとという機能じたいが、陰湿で気味が悪いとわたしは思ってしまう。誰がなんどみたっていいじゃんて。
(もちろんそれらはわたしの感じた居心地の悪さであって、しっかりたのしく使えている人たちはそれでよいと思う。)
けれど、フェイスブックはいい。と思う。みんな元気でやってることや、なかなか会えないひとたちの近況が、
気楽にちょいちょい知れて、気楽にいいね!とかひとこと声をかけることができる。
わたしもちょいちょい書きたくなる。それはたとえば学校や会社なんかで、ちょこっとおしゃべりするのに似ていて
わたしはこれくらいの気楽さが合っててきにいっている。
もちろんわたしもみんなも「友達」にはいってるのは同級生だけじゃないけれど、それもおもしろくていいとおもう。
ネットのコミュニケーションはこれくらいパブリックで、かろやかで、オープンなのがいいな。


わたしは同級生たちと実際に再会することになった。ちょっとした同窓会しよう、と大きな集まりや、お茶しよランチたべよ
みたいなちいさなことまで。
きっとブランクなんて一瞬もなく、みんなで大笑いするんだろうとおもう。