映画「サウダーヂ」について、いま考えていること

修道院の長老がこう言う。


肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことだ。
みずからを欺き、みずからの偽りに耳を傾けるものは、
ついには自分の中にも他人の中にも、真実を見分けることができぬようになる。
したがって、みずからを侮り、他人をないがしろにするに至るのだ。


カラマーゾフの兄弟に書いてあった。
とても簡潔で具体的で、明快な説教だと思う。
思い込みによる自家中毒が精神病の根源であり完全にみずからを欺いているのだと
それを自覚もできず知らず育つ子供らのいかほどに多いことかと
銀座の街や会社にてそのように思う。
聞こえてくる言葉、誰でもいい会話、波風のなき偽りの空間と、しずかに押さえつける暴力。
欺きつづけていたわたし、資料を切り刻みながら思う、よくやってたねえとおどろく。
うそのことば、うそを真実に近づけようと闘ったことば、ばらばらになり同じようにちぎれ
塵になる。まあ、もうすっかり終ったことだ。
他人に環境に理解を示しすぎることは、自分を欺くことに、つながりやすいからきをつけて。
きをつけてなどいなかった、無防備に、そのくせはきっと続く。


ドストエフスキーは長老が奇跡を起こすシーンを、ちょっとおもしろく書いている。
憑かれ女、いまでいう精神病の発作を起こす女性たちで、彼女らはとてもくるしんで叫んでいる。
けれど長老が目の前に現れると、すうっと治るという奇跡がおこる。
これは、本当は彼女らは仕事したくなくて、病気になっている、と
ドストエフスキーはあっさり(ちょっと笑ってしまうくらい)お茶目にかいている。
そして奇跡は、ふつうの状態に戻りたいという本心と、長老の戻りなさいよという理解と慰めが
うまいこと共振して起こり、病が治るのだと、そんなふうに書いている。
わたしははじめてドストエフスキーを読む。なんておもしろいんだろう!と心が満ち満ちる。


さて、わたしはこの冒頭に引用した言葉をビラにして今の東京じゅうの上空に
ヘリコプターから撒き散らしたいくらい、みずからを欺く人とその醸成されるおかしな環境にたいして
自覚してと、叫びたいのだけど叫べばおかしな狂信者扱いをされるのかな?
そう、このようなときのためにさまざまなメディアが発達しここにあるのだけど
メディアとなると数が多すぎて、かんたんに埋もれてしまう。
ただし数も絞られてあんがい埋もれにくいメディアがあり、それが映画だと思う。
わたしは「サウダーヂ」の大ヒットをとてもうれしく思っている。


とにかくたくさんの人たち、たくさんのうそつきが出てくる映画だ。
うそつきというのは、長老の説教基準での、自分を欺いている人々のことで
なにか自分を納得させて生きている人々。
自分説得材料は、世間にそれこそメディアに溢れており、かれらは納得のために
耳や目をふさいで生きている。しんどいと思う。でもそれが、銀座の真実でもある。
映画の舞台は山梨県甲府だけれど。
目先の人間関係は狭く、そのなかに閉じ込められているけれどそう思っていない人々は
それぞれにちいさな憧れや希望を抱いているはずなのだけど、
それら夢がほんとうか、自分を欺いて得た、夢という(さらに欺きを強固にする)説得材料ではないか
自分さがしのあとの自分確定を、早急にむりやり捏造するための灯し火じゃないかと、
まぼろしごっこか言葉遊びか、ざらざらに見え隠れする、みずからの偽り。顔、顔、顔。


たくさんの登場人物のなかで、主人公のラッパーの男の子、それから何人かの女の子集団が、自分を欺いていない。
そのふた組だけ?と思うかもしれないけれど、映画をみればそう、自分を欺いたまま生きることのたやすさと
長いものに染まっとけばOKなんていうアイデンティティのお手軽さ(そして、異常さ)が明確にみえてくると思う。
女の子たちは他人のうわさ話をするだけで、うわさの内容の虚偽はともかくとして
すくなくとも彼女らはまったく自分を欺く気がない。さらさらない。そもそも、欺くってなんで?つまんなくね?
つか、めんどくさ。
と思っている。(わたしはこの子たちが好きだ。)
そしてラッパーの男の子は、自分を欺く材料となりえるものたちと、意識的にもうれつに、闘っている。
この主人公の子に、ふいをつかれて自家中毒が侵食し、まわってしまって事件を起こす、さてかれはたましいを守れたかと
わたしはこの映画をおもにそういう映画だと思っている。
かれの贖罪をみてわたしたちは救われる。元気や勇気や癒しをもらうことや、みずからの正しさを守っていいんだよということを
それが一寸先の未来と現在の環境を手放すことになっても、それでもかまわないしそのほうがはるかに生きやすく
快適で、苦しくないのならそれが、みずからを欺いてないってことだと、わたしはからだにしみてそう思う。
そしてかれ以外の人々の欺きの姿、その多さを見て。
もうひとりの主人公、土方の男性が、幻影とともに、欺きとおした現在の自分自身の孤独に気づいて途方にくれるシーンがある
かれの場合は、一寸先の未来と現在を…手放すのでなく、そもそもそんなものなかったとっくに失ってたとわかってしまう。
かなしいけれど現実は目の前の現実で、そして「これは自分だ」と自覚する誰かが、多くいてくれればいいと願う。
自覚できなければ思考も行動もできない、脳にうでに足に言葉に、そういうふうにつながらない。


そうであってほしいから、いまあと東京で二週間あるから、これから全国ほかの都市、このさきも上映をするのだから
以前にこの映画のことは書いたけれど、あらためておすすめする。


サウダーヂ
http://www.saudade-movie.com/