台風の夜、踊りながら空へ行く女性
東京に台風が直撃している。きょうは祖母の告別式。
変な話だけど、嵐の中でお別れの儀式だなんて、おばあちゃんらしい。
私にとって彼女は、おばあちゃんであり、「踊りの人」だった。
家の自営業の他に、日舞の先生をしていた。
「踊り」の教室にいる彼女は、台所のおばあちゃんとは違う魅力が溢れていた。
私は日舞の良し悪しなんて理解してなかったけれど、
「踊り」の時の彼女は、きりりとしてて、豪華に笑った。とても素敵だった。
彼女はいつのまに「踊り」をやめたんだろう。
足が不自由になってきたから?それについての話は誰からも聞いたことがない。
みんなにとって、彼女は一族の母であり、「踊りの人」ではないのだから。
でも、肉体の不自由がない『あの世界』なら、思いきり踊れるね。
お別れの儀式で、一番苦しいのは火葬のとき。
偉大なる祖母が灰になる。オートマティックな火の機械は、無慈悲だ。
最近読んだ、アイザック・ディネーセンの「アフリカの日々」に
アフリカの葬儀について書いてあったのを思い出す。
アフリカでは、死者を外に出して鳥たちに食べさせる。
グロテスクにも感じるけれど、死者が鳥たちの中で生き続け、空を飛んでいる
なんて素敵じゃないか、とディネーセンは言う。私もそう思う。
ヴードゥー教の話じゃ、死者はゾンビになって蘇るという。
土葬の文化があるから起こり得る話だ。東京では起きない。
亡くなった父親に会うことが出来るか?
幼きころにおとぎ話やSF小説を読んで、出来るかもしれないと思っていた。
そのころはそんな物語をいっぱい書いていた。そのうちに、火の機械に直面した時
それは出来ないのだと知った。
おばあちゃんは、医療事故で亡くなった。突然すぎて、自分の死に気がつかずに
彷徨っているんじゃないか、と母は悲しそうに言っていた。
最近「シックス・センス」を見て、小説を読んだばかりらしくて。
でもそのうち、きっと自分の足が自由に踊り、私の父やおじいちゃんに会う。
それでわかるだろう。
私はみんなが久しぶりに会って、笑っていることを願うだけです。
帰り道の新青梅街道は、大雨で道路が洪水状態になっていた。
タイヤの半分ぐらいに水がきている。これも、アフリカ人的にいえば神の御業。
「アフリカの日々」は私の死生観をすこし変えてくれたようだ。
火の機械の攻撃、親戚たちの涙や笑い、嵐の中走りぬけ、そのことに気がついた。