台風の夜、踊りながら空へ行く女性

akk2004-10-09

東京に台風が直撃している。きょうは祖母の告別式。
変な話だけど、嵐の中でお別れの儀式だなんて、おばあちゃんらしい。


私にとって彼女は、おばあちゃんであり、「踊りの人」だった。
家の自営業の他に、日舞の先生をしていた。
「踊り」の教室にいる彼女は、台所のおばあちゃんとは違う魅力が溢れていた。
私は日舞の良し悪しなんて理解してなかったけれど、
「踊り」の時の彼女は、きりりとしてて、豪華に笑った。とても素敵だった。
彼女はいつのまに「踊り」をやめたんだろう。
足が不自由になってきたから?それについての話は誰からも聞いたことがない。
みんなにとって、彼女は一族の母であり、「踊りの人」ではないのだから。


でも、肉体の不自由がない『あの世界』なら、思いきり踊れるね。


別れの儀式で、一番苦しいのは火葬のとき。
偉大なる祖母が灰になる。オートマティックな火の機械は、無慈悲だ。
最近読んだ、アイザック・ディネーセンの「アフリカの日々」に
アフリカの葬儀について書いてあったのを思い出す。
アフリカでは、死者を外に出して鳥たちに食べさせる。
グロテスクにも感じるけれど、死者が鳥たちの中で生き続け、空を飛んでいる
なんて素敵じゃないか、とディネーセンは言う。私もそう思う。


ヴードゥー教の話じゃ、死者はゾンビになって蘇るという。
土葬の文化があるから起こり得る話だ。東京では起きない。


亡くなった父親に会うことが出来るか?
幼きころにおとぎ話やSF小説を読んで、出来るかもしれないと思っていた。
そのころはそんな物語をいっぱい書いていた。そのうちに、火の機械に直面した時
それは出来ないのだと知った。


おばあちゃんは、医療事故で亡くなった。突然すぎて、自分の死に気がつかずに
彷徨っているんじゃないか、と母は悲しそうに言っていた。
最近「シックス・センス」を見て、小説を読んだばかりらしくて。
でもそのうち、きっと自分の足が自由に踊り、私の父やおじいちゃんに会う。
それでわかるだろう。
私はみんなが久しぶりに会って、笑っていることを願うだけです。


帰り道の新青梅街道は、大雨で道路が洪水状態になっていた。
タイヤの半分ぐらいに水がきている。これも、アフリカ人的にいえば神の御業。
「アフリカの日々」は私の死生観をすこし変えてくれたようだ。
火の機械の攻撃、親戚たちの涙や笑い、嵐の中走りぬけ、そのことに気がついた。

アフリカの日々 (ディネーセン・コレクション 1)