アメン父

せっかく休みなのに、風邪にやられる。外は寒いし…
悔しいので、今日は完全にひきこもると決め、一日中本を読んでました。
おかげで長らく友人から借りていた、田中小実昌の「アメン父」を読了。
以前、その友人に
「わたし、年をとって現場を引退したら、作家になろうと思って」
と小学生の作文なみにめちゃくちゃな夢を話したときに、
彼女はニヤッとチェシャ猫みたいに笑って、この本を読んでみな、と言った。
文学は自由だよ。いろんなやりかたが出来るんだから。フフッ。


アメン父」はキリスト教の宣教師だった、コミさんの父親の話。
ノンフィクションの記録を、コミさんがつらつらと、書き連ねるというよりは
話している。独り言のように進むおしゃべりは、子供の視点だからって
まるきり子供のような純朴さで、父の『アメン』を語っている。
コミさんの父にとって、世界はアメンがすべてで
ただ、アメンと十字架があり、その光の中に『いる』
それによって救われるだとか、癒されるわけではない。
アメンの雨の中で、耐え難いよろこびを浴びて、浴びすぎて苦しみもがく。
その行ったりきたり。
アメンが今も父を刺し貫いている、とコミさんは書いた。


その教会には十字架が無かった。
綺麗な洋風建築でもなく、畳張りの部屋、殺風景な空間。
教会が『演出』する宗教的なもの、気分、気持ち、そんな曖昧なものには意味がなく
この人にとってアメンだけがはっきりした事実だったからだ。
アメン父は、キリスト教は宗教ではない、と言っている。


私が通っていた中学と高校は、キリスト教の学校だった。
だから毎日、朝の礼拝があって、授業にはキリスト教があって
クリスマスや復活祭は、一大イベントだった。
でも学生達にとっては、その雰囲気に心酔することなどなくて
(それは日常だし、他に興味がいっぱいあるからだ)
聖歌を歌ったり祈りを捧げることで、心が清らかになるなんてこと
はっきり言うと、ほとんどなかった。
それよりも私は物語として聖書を受け止めて、その言葉が時々しみたし
音楽として聖歌や宗教音楽をつかまえて歌い、時にCDを買って聴いた。
聖なる気持ちなんていうあいまいなものよりも
がっちりと感じたのは、誰かに伝えたくてそれを書いた人の情熱の強烈さで
その熱にあてられると、巻き込まれて胸につまされた。
神への強烈な愛が、その人のなかの感情がなしえた業なんだろう、と思っていた。
切なる愛の創造物。
でもそれは、きっとただ、出来てしまったんだ。アメンの渦の中で。


この本を読んで、信仰する人の心の状態がよく分かった。
人の原罪を背負って死んだイエスを、ヒーローとして崇め奉るのが宗教だとしたら
キリスト教は宗教とはいえない。
そんな狭いもんじゃなく、それは今みているあなたの世界をすっぽりと覆う。
人生を包む。


コミさんも私も傍観者だ、渦の中には居ない。
だけどコミさんは、中の様子を教えてくれた。まるで体験した人のように。
私が感じた情熱の渦より、もっともっと広いんだって。
これは文学だったのかな?なんだか…
そう、文学だよ。って、イヒッと笑う友人の顔が浮かんで、とても会いたくなった。

アメン父 (講談社文芸文庫)

アメン父 (講談社文芸文庫)