Today#15 記憶のまちがい探し

けさ会社の同僚が、紅茶を飲みながらパンを食べているのを見た。
お昼ごろ、その話をしたら
「何言ってるんですか、何も食べていませんよ。」といいます。
私の記憶は鮮明で、コンビニ袋と紅茶のペットボトル、袋に入った細長いパンを確かに見ていて
もぐもぐ食べてたじゃん、と一生懸命その光景を具体的に話したら
ものすごく怪訝な顔で、一つ一つ、私の見たものの誤解を解き始めた。
その人は確かに紅茶を飲んでいたけど、何も食べてなくて、コンビニ袋の中がパンだったからって
その時食べていたように見えただけだった。ある程度まであっていて、あるところからがイメージで。
そんなことが日常にあるなんて、私はガルシア=マルケスにやられすぎ?いやいや。
こんな記憶の間違いは些細だけど、積もり重なって時間に醸造されると、とんでもないアルコール度数がまわる。


スコセッシの『グッドフェローズ』はすごく好きな映画で、初めて観たときから。
ところが私は長い間、そのラストシーンを完全に勘違いしていた。
デレク&ザ・ドミノズの『レイラ』終盤のピアノの音が、レイリオッタが路上で撃たれて死ぬ真俯瞰の映像に流れる。
どんどんカメラが引いていく。
これが私のラストシーンだった。
見た人は、びっくりしてるでしょ?見てない人は、観て大笑いするでしょう。
だって、レイリオッタは死なないんだから。
そんなカットは無いんだ。本当のラストシーンを観て、まったく違う意味の結末と
スコセッシのメッセージに、バンザイ三唱したのはわずか数年前のこと。
最後に流れるのはシド・ヴィシャスの『マイ・ウェイ』だった。ピアノどころじゃない!


予告編の『レイラ』終盤のピアノが印象的過ぎたのと、私はその後、あのピアノの音楽が
クラプトンだという思いもよらない事実に出会って、その部分だけ録音して何百回と繰り返し聴いたから
そのうちに、勝手に脳が記憶を作り変えたんだよね。
音楽を聴いていると、勝手に頭がビデオクリップを作ってしまうことってあるでしょ。
私は『グッドフェローズ』を自分の印象だけで再編集して、それどころかリミックスして
何度も音楽を聴くうちにそれは新しい映像になってしまった。
すごいなあ。って感心もするけど、おいおい、やばいでしょうそれは。本気で思う。
絶対に忘れたくないすごく嬉しいことは、脳に焼き付けておこうとして、何度も繰り返し思い出す。切実だ。
でも新しい記憶が増えていくたびに、新しい喜びがあらわれるうちに忘れてしまう。
日記やノートに書いておけばいい。
でも、書いたことさえ忘れてしまう。なんておそろしい、悲しい。
誰かの印象的な表情なんかは、いつも鮮やかだ。脳が補完してたって、あの目は忘れないとか
忘れたくないから絵に描くとか、それで自分の絵の限界を知りながらも、鮮明にしたくて油絵のフルカラーで
印象を残そうとしたこともある。
それはもう、主観だらけのイメージがアウトプットされたものでしかないのにね、それでも。


しかし記憶は、ある日突然、目の前にせまってくる。
残っているのに、いつもどこにいるんだろうね。