モーツァルトに熱狂の日@東京国際フォーラム

akk2006-05-06

ゴールデンウィーク東京国際フォーラム全館でモーツァルト祭!
今日は、クラシック版フジロックと言いたい『熱狂の日』に行ってきました。
チケット取るときは全然無意識だったんだけど、なぜか宗教曲の公演を選んでいて
「証聖者の荘厳な晩課」ほか2曲宗教、アンド夜最終の「レクイエム」を聴きました。
な〜んでかなぁ。モーツァルトなんて、フィガロの結婚とかアイネクライネナハトムジークとか
交響曲もピアノも聴きたいものすごくいっぱいあったのに、なぜだ。いやいや、理由は結論で明らかになる。


ざ・モーツァルトな感じが聴けそうだったので、さきに夕方の無料アマチュア公演へ。
魔笛」のはじめと、パパモーツァルトの「おもちゃの交響曲(だったか?曲名違うかも)」を聴けました。
パパの曲では、おもちゃ担当者が輪になって、客席側にぐるっと向いて演奏です。おもしろかった。
ペットボトルで水笛をやっていて、衝撃的でした。あんなに一定の音がだせるのね・・・。
会場は座れないほど満員で、子供とおばちゃんが多かった。孫?連れていくよねぇ、こんなイベントならさ。
ほとんどわからない現場写真は右上(去年もこんな写真アップしたような?)


さて「証聖者〜」へ向かいます。
とてもとても美しい曲が、とても丁寧に繊細に、美しく広がって、
ああもう、生きてるっていいねえ!と文字にするとあほみたいなことを全身で思って、
宗教曲なのに?と思われるかもしれないけど、ほんと気持ち良かったんです。この夜この音楽は。
配布されたプログラムに歌詞がついていて、それを少し読んだら、やっぱりこの公演で
演奏された曲の歌詞はそんな内容で、生の喜びと神への感謝と愛でいっぱいだった。
それでは・・・「レクイエム」へいく前に、少しだけ話をさせてください。


ちょうど今日、ガブリエル=ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読み終わりました。
この休みに入ってから一気に読んで、終わってしまった。百年の流浪の旅が。
ブエンディア家の百年間の孤独は、癒えずに生を終えた?
空に舞っていくあの人達の人生は、風と一緒に消えてしまう、なんて悲しい、百年も千年も、
そのうちの数十年生きるなんて塵に消えるってことだ、みんな、そうだ。魔法みたいに。
その物語を読み終えて、どうしたらいい?
あっけにとられて、受けきれないでいて、そのまま有楽町へ向かった。


「レクイエム」を体験するのは私の夢の一つで、なんでかっていうと子供の単純な思い込みで
いつか演奏を聴くとき、亡くなった父親やおばあちゃん、おじいちゃん、おじさん、おばさん、うちの一族のために
お祈りしよう、という幼稚な思いがあって。だけど私、そのことすっかり忘れてた。
それで音楽が始まって、ああそうか、と思い出した。
百年の孤独」のたましいの塊が、うわっと現れたから。あの物語のストーリーを思い出した
というより、ストーリーが終わったその後の、マコンドという土地に浮遊するかれらの魂と
かれらのたどった人生の幻がみえたような感じで。時の流れひとつずつが、蜃気楼みたいに。
生きている私たちはただ祈る、彼らの魂が安らかに休まるように。孤独が消えるようにね、
レクイエムはそのためにある曲だ、
そのとおりの音楽
ソリストが男女2人ずついて、彼らがまるでブエンディア家の人々のように見えた。
沢山の登場人物が彼らの体を借りて、つぎつぎと入れ替わり立ち代わり、うたっている。
そのうちにそれは天使になって、うたい尽くしたブエンディア家の周りをとんで
それからわたしの故郷の土地や、世界じゅうの土地にとんでいった。
 世の罪を除きたもう神の子羊、彼らに安息を与えたまえ
 主よ、永遠の光を彼らの上に輝かせたまえ
 アーメン!


この音楽を聴きながら、子供のころ決心した事を果たすんじゃなくもっと単純に
今まで生きていて、亡くなったすべての人に安息をしてほしいと願った。切実に。
モーツァルト音階てちょっと特殊だと思うんだけど、胸がすくような、足元をふわっと
持ち上げられるような神様のカタルシスを感じる、ことがよくあって
陽気な歌でも、シンプルなピアノでもお構いなしに溢れてる。びっくりする。
おもに二つの宗教曲で、きょう、世界の両淵をみたなんていうと大袈裟な感じするけれど
モーツァルトありがとう。
日々、大事に生きるよ。

モーツァルト : レクィエム ニ短調 K.626

モーツァルト : レクィエム ニ短調 K.626

こんどは、大祝祭モーツァルトを聴きにいきたいとおもう。
どっちもどっちも、同じなんだろうね、きっとね!