ビデオアート史講座(90年代世界情勢)@横浜美術館

横浜美術館の「ビデオアート史講座」きょうも元気に受講してきました。
今回は、90年代・世界篇。主にアメリカが多かったかな。
講師のスティーブン・サラザン先生は、その頃ニューヨークにいて、
いわゆるアンダーグラウンドのアート活動を体験している。
その辺りの視点も聞くことができて面白かった。


私が夢中になった90年代といえば、音楽の新しい波で、べたに言ってしまえば
アメリカはソニックユースを筆頭に出てきたオルタナティブロック
イギリスではセカンド・サマー・オブ・ラブマンチェスタームーブメント
どちらにもずばっとハマッた私にとっては、この2つの大きな波は手段は違えど
それまでのうっ血した濁りが、爆発して狂い咲いたような感じがした。
10年ごとに飽和点がおとづれるものなのか。わからないけど…
ビデオアート界でも、転換期がやってきたらしい。90年代、その新しい世代。
4:3の四角いフレームの中だけで完成させる映像美、動く絵画アートから一気に自由になった。
ビデオの映像そのものを、もっと空間へ拡張したビデオインスタレーションが盛んになり
対照的に、個人の内面へ潜る、私的な日記映像によるダイレクトな表現がどっと増えた。


私が映像をはじめたのは、まさにこの頃で、或る映像の学校に通っていたのだけど
同級生には、イメージフォーラム研究所に行っている子も多かった。
だからこの頃の方向性はよく知ってる。自らがカメラの前に立つことや、家族などの私的風景を
撮影することの重さなどを経て、私的な表現をいかに映像作品とするかが重要視されていた。
その際、カメラのアングルは映像美よりも、表現のためのダイレクトさがとても大事で
カメラがぶれてようがピントが合ってなかろうが、伝えることに重きを置く。
私もこの考え方にはずいぶん影響されたよ。その名残は今もある。
たぶん普通のディレクターより、映像の技術的な側面に対して寛容なほうだと思う。
ようするに甘い。映像を仕事にしている人としては、それは甘すぎるんだと自覚してるけども。
それでも、消えないし、人の作品をみるとき、その甘さを消して受け止める気は無い。


きょう見た作品は、前回のように一部抜粋しても楽しめるという、絵的な目のよろこびで
成立するものではなかった。
それは2時間のDJのうち5分を抜き出して聴くようなもので、それなりに楽しむこともできるけど
全体のグルーブ、感情の流れかたが大事な作品ばかりだったからだと思う。
本来の長さは60分程度の中篇が多く、ちゃんと初めから終わりまで改めて観たいと感じた。
その切り抜かれた5分に、アートが与えてくれる強い「光」がチラついてる。
おもちゃカメラで撮ったサディ・ベニングの日記映像や、リバンの内戦を極私的に捉えたワリド・ラードの作品
タイトルは知ってた「DIAL H-I-S-T-O-R-Y」は、TVに映るハイジャック事件の報道映像の数々から
犯人の顔がだんだん見えなくなり、より暴力的な無名のテロがとって代わるさまを、時代性としてみせる。
(ようだ。そこまで観てないので。。)
90年代、一斉に内面へ向かったのはなぜだろう。そして個人的には、今のビデオアートは、この時代とは
また違うと思っている。それはまた、考えて、今度書きます。


ちゃんと観たいといっても、今日上映されたのは全編字幕ナシ!なので日本では難しいんだろうな。。
次回は3月10日、最終回。90年代フランス篇です。あぁ、もっとやって〜