ヘンリー・ダーガーの終わらない物語

久し振りに原美術館へ。
暫くの間、絵画からずいぶん離れてた。
忙しすぎたのもあるけれど、なんか動くものを感知していたくて、
ダイレクトに映画か、本を頭の中で視て、それから現実の風景と。
なんでそこに絵画がエントリーされなかったのか、写真もそうだけれど静止してるものが。
苦しかったり、嫌なことばかりが続くと、ひとは防御本能を発揮して非現実世界を必死に求めてしまう。
もうひとつ(かそれ以上多く)の場所へ辿り着くには、なるべくディテールが細かいほうがよくて
かつ、リアルに感じられれば感じられるほどよい。
だから静止している風景よりも、動的な映像がよくて、五感の受ける情報が多いからね。
さらに実は一番いいのは文章の連なり、小説だったりする。なぜか。頭で五感すべてに変換されるからだ。
と、このごろの私は感じたんだろうな。
ヘンリー・ダーガーの絵画に興味が向いていた。
この人の殆ど多くの作品は「非現実の王国で」という、自分で書いたファンタジー小説の世界を
視覚へと拡張したものばかりだ。となにかで知ってから。


このひとは画家人生を送ってきた芸術家ではない。
幼くして天涯孤独となり、誤診で身障者の養護施設で育てられ、社会に出てからは黙々と雑役夫の仕事をし
誰にも知られることなく「非現実の王国で」という一大長編小説を書き続けていた。
趣味でコラージュや絵画を創作していた彼は、やがて小説の『挿絵』という名目で
その小説の中の光景を視覚化しはじめた。
誰かに頼まれたわけでも、誰にみせるわけでもなく増殖し続けたその世界を60年間制作し続けて
ずっと住んでいた貸部屋を引き払い、老人ホームへ行く際に、彼はそのすべてを置いていったの。
「好きなようにしてくれ」って言い残して。
家主がたまたまアートデザイナーで、その絵画の世界に魅了されたから、こうやって日本の東京で観ることができた。
でも、絵画に興味のない家主だったら、いまごろはすべて塵なのだ。
信じられない話でしょ。悲劇にも喜劇にもなるような、そんな人。


その小説の内容は、一言でいうと『ネバーエンディングストーリー
正式なタイトルはとても長くて
「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因する
グランデコーアンジェリニアン戦争の嵐の物語」
小説は一万五千ページにも及ぶ!という、ありえないもう考えられない読破できないほどの狂ったボリューム。
概要や精神を知るには、5月号の美術手帖が素晴らしい濃さでせまりまくってるので、興味のあるかたはこれを。
私のダーガー氏のイメージは、もうまるっきりドンキホーテそのものなんだけど・・・
彼の視た幻想世界は、色彩が天才的に綺麗で、非現実でのリアリティ、唯一無二のバランス感で成立している。
でも根底でなにかが狂っていて、不思議の国のアリスのようなんだ。
ぱっとみて、ああ綺麗だな・・・よくみると、みればみるほど羅針盤が狂ってる。そういう感覚。


ダーガー氏はきっと、「非現実王国」のディテールを(ディテールなどと自覚せずに)詳細に視覚化しようとして
現実なんてどうでもよくなるぐらいにのめりこんで、現実から乖離していったんだろうね、羅針盤のずれに
気づかないし関心が無いほどに。
正直にいうと、ものをつくるのにこれぐらいの憑依を続けるのは本当に難しい。
例えば書き続ければ、物語は終わりなく、終わりが見えてても増殖しちゃう。
それは日々出会う音楽や芸術、コミュニケーションが影響して、要素が増えていくから。
だけどどこかで終わる。そして冷静な判断で、読み手に正確に伝わるかをジャッジする。
すると適正なサイズの小説が出来上がる。
ダーガー氏はそれをやらなかった。それは冷静な俯瞰よりも、書き留めることしか頭になかったからじゃないかと思う。
それは60年以上ずっと、その王国の物語に熱狂し続けていたってことだね。
私はやっぱり同じように、いま書いている物語の世界を愛してて熱狂してるから、気持ちがとてもよくわかる。
あらすじは決まった、あとは書くだけ、でも書く行為がその非現実世界の滞在時間だから、長く居たい。
でもどこかで終わるでしょう。だって読ませたい人がたくさんいるから。それがなければ・・・
終わらないだろうね。


ヘンリー・ダーガーのドキュメント映画がシネマライズで上映されるそうです。
まだまだ先の話だけれど・・・凄そうな予感がします。
映画から入って絵画に出会うのは理想的かもしれないね。
普通の画家じゃあまりお勧めしたくない入り口だけど、この人に限っては。