目と耳と安らぎ

もう、忙しすぎてびっくりでした。
阿佐ヶ谷に住んでいて本当によかった、とこの度しみじみ思ったのは
映画館がある街だったってこと。
一ヶ月近く、土日もフル稼働させられた挙句、疲れ果てても自分を見失わずにすんだのは
なんとかして、映画を見に行けたから。
先月の日記から一ヶ月以上も空いてしまったけれど、そのあいだにラピュタ阿佐ヶ谷
岡本喜八特集の「斬る」「吶喊」「近頃なぜかチャールストン」(全部岸田森目当て(笑)
モーニングの高千穂ひづる特集「ろくでなし」(凄い面白かった!)
先週から始まった東映アニメ特集で「白蛇伝
・・・ほとんど私の避難所と化してます、ラピュタ
近所に好きな映画館があるって、いいよ。どうしても偏っちゃうけど。
でも、昔の日本映画がちょうどいい感じの精神状態だったの。新作一覧を見ても、眼が痛く
なりそうな、また心が疲れてて追いつけないような気がして。渋谷新宿に行く気力がなくて。
外国映画ははるか遠い出来事に思えそうで(こんなこと思うのって珍しいけど)。
もちろん岡本喜八はどれもテンション高いし、「ろくでなし」は辛らつだったりするけれど
とてもほっとした。
この安心感てなんだろうってかんがえると、『眼や耳に痛い刺激物』のなさで、
それはすなわち、非デジタルってことを感覚で捉えたときの素直な(全身で受ける)感想なのかとおもう。
色彩表現の値が増えまくったり、鮮明になればなるほど失われてゆく安らぎ、
音の表現幅が狭まりながらも、臨場感を擬似再現することで消える場の空気に、
むかしの映画や音楽に立ち返ると出会えるってこと。
音が悪かったり、映像が不鮮明なのをいやがる人は多いのかな?
それがどうであれ、自分の全神経で受け止めることができればそれで、素晴らしいと思うのだけど。
だから逆も然りで、私ももう少し元気になったら、デジタルの刺激にうっとりできるとおもう。今はまだダメだ疲れてる。
知人に貸りっぱなしの「トランスフォーマー」がまだ見られないでいる。。


このごろずっと編集スタジオにこもっていて、一緒に仕事してた編集マンのかたが、音楽をずっとかけていて
テクノやハウス、ドラムンベース、ほぼ私と似たような嗜好ルートの曲を大きい音で聴きながら作業した。
最近クラシック一辺倒だった私ははじめ戸惑ったけれど、すぐに聴き入って、おかげでとても気持ちよく過ごせた。
それで驚いたのは、そういった音楽を大きな音でかけているのに、私の小さな(とくに疲れ入って極小の)声を
きちんとすべて聞き取ってくれたことだった。
「えっ?」とか「はぁ?」などと言われる事なく、相手も同じ位のボリュームで話をしてくれるので
私はとっても安心した。それで、この人は音楽を微細まで聴き、捉えている人なんだな、と思った。
簡単に言えば耳がいいってことで、きちんと言えば、音の細部に耳を澄まし、音が響く空気の振動から伝わる表現を
多く捉える感受性のこと。
同じ空間にいても、聴こえないものは聴こえない。
聴力は同じでも、脳に情報伝達するときに心が省くたくさんの音があって、すべてを受けることはできないけど
それは視覚も同じで・・・私は疲れてしまうと逆にすべてが敏感になりすぎて、受信過多でぐったりしちゃうほうだ。
デジタル、アナログ、現実世界の風景、街の空気や誰かの話し声、それらわたしが出会うものを
わたしはわたしのセンスで気持ちのよいように、受けとって生きていければいいなと思う。
・・・ってやっぱまだ疲れを感じる日記でゴメンナサイ。お耳直しに昨日出会ったジャイルスピーターソンを。
スタジオでずっと聴いてて、帰りについ買っちゃった。とっても良いアルバムよ。

In the House

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