ノーカントリー

日々が重なり、一年になり、五年になり、十年になる
歳をとって、私はあるとき死ぬ。明日か、四十年後かわからない。
時代ってなんですか。正体のない大きな流れのようでいて、小さな生活の集合体で
今、それが歪み続けておかしくなっているのか、それともそれは延々と続いているのか
わからない。わからなくなった。私はこの映画を観て、とてもショックを受けています。
ただ悲しいです。わたしは時代を生きているのに、ひどい舞台のさなかに立ちながら
それを助けられない。変えられない。それでそのまま死んでいく。
無意味に生きて死んでいく人生なんてものは、この世に存在しない。
だけど、わたしは幾ら尖っても、時代を逆行して生きても、ひとりの役者でしかない。


NO COUNTRY FOR OLD MAN
と言うほど、私は年老いてもいない。
この時代を生きる、たとえば『世代の違う』5歳や10歳、それ以上違う年齢の人たちの
気持ちを知りたい。いつもいつも、そう思って、そしてそのなかで私自身との共感をさぐって
不変のはずの『なにか』を探して、受信し発信する。私と誰かは表現しあう。
コミュニケーションはこころの深いところでつながるべきで
洋服のようにおもてを飾る、その『世代』を突き抜けていくべきだ
ただそれは難しい、きっと私があるどこかの段階で、あきらめるからだ。
無理だ、と自身の限界を知るからだ。私は神の子だけど、神じゃない。
そうして「時代が歪んでいる」と言う、歪みを知るなら正せばいい。
だけれど私にはどうにもできない。
そのままそうして、あきらめることが増えていけば
時代に取り残された私に住む国は無い。


主人公は保安官だった。
私は一市民、きちがい沙汰の事件は身近にない。けれど日常のコミュニケーションのなかで
歪みを感じている。逃げる。怖いことからは逃げて、離れたところで悲しみ、怒っている。
その底辺に流れる感情は絶望で、無理だと悟る感情。
繰り返し、わたしは控えめに、嫌われるのを覚悟して、私の感じる歪みをなんとかしようと話をする。
手紙を書く、メールをする、ブログを書く。
けれど私の声は小さくなる。伝わらないことへの恐怖が私の声を奪って、逃げる。
些細な悲しみや怒りすら、伝えられない。私は歪んでいる。
なにが私を縛ってる? 時代が。 我慢の果ては? 負傷とあきらめ。
私は忘却し、自己防衛をする。耳をふさぎ、目を閉じ、ひとりになる。そのうち笑う。
せめて嫌悪を棄てられるように、努力して、そうして住む国。それなら今、手元にある。


この世に回る運命の、完全な秩序に溢れている映画。それしかないくらいに。
偶発的な出来事はすべてさだめられていて、この世は円形舞台、仕掛けのなかで動く役者。
どうにかするって?どうにもできないよ。この無力感、脚本家は誰?演出家はどこに隠れてるの?
彼のかなしみや、私の傷はどうなる?意外な展開、ハッピーエンド、それとも惨劇?
私になにかできないか。できない。もう疲れてしまった。それでも私は運命をくるくるリスみたいに走る。
私は絶対に必要な役者だからだ。


奢るな、とこの映画に言われた。
わかってる、でも私は伝えたい。だからなるべく多く、私が知るあたたかさや傷の手当の薬を持って
ばかみたいな運命のなかを転がっていこうとおもう。
私にはそのように生きるしかできない。舞台が歪んで怪我人が増えているなら、自分の負傷も含めて。
あたしはナイチンゲールのはしくれ、薄汚れた白衣を棄てて、新品の白衣に着替えるよ。
もしかしたら舞台に飛び出た一本の釘を、引っこ抜くぐらいのことできるかもしれない。
そう、そういう希望をもたなきゃ、時代に刺される私の傷はいつまでたっても治らない。


フルトヴェングラーがナチ占領明けのバイロイト音楽祭で、信じられない第九を生み出したように
たぶん、奇跡は時代のなかで、交通事故のようにして起こる。
それは止められない。コーエン兄弟が描き続けているように、おかしくもかなしくも、幸福にも。
この映画は結局のところ、コーエン兄弟作品のなかでだんとつで最高のものだと思う。
昨日観て、私はまだショックを受けたままで引きずっている。ただこのどうしようもない無力さを
徹底した非情さと歪みを、ひとりでも多くの人が観るべきだ、と思い続けてる。
だってそれでもこの映画は、冷たくない。とてもやさしい人の嘆きで作られた映画なのですから。どうか。