アフター・ノーカントリーの断片

ノーカントリー」を観た後、ショック状態を引きずって書いたブログを読み直すと
あたしはなんとかして、闘おうとしてるんだけど足元がおぼつかなくて、真っ暗だ。
自らブログに書いてた、『私が知るあたたかさや傷の手当の薬』を、あの時くれた、
そばにいる私の大切なナイチンゲール達に感謝しながら、ほんとうに、
やさしい人たちが傍に居ることの幸福を、悲しみを浄化する音楽や、たんぽぽの綿毛のように心が軽くなる映画との出会いを
あたしは運命に感謝する。
一千一秒、悲しみは交差点を縦横無尽に走っていて、すれ違ったり激突したりするんだ。
けれど、そこには幸福も同じように走ってることが、今ではみえている、もともと見えていた。
あたしの目隠しは知らぬ間に外れてた。
ノーカントリー」を観た、または他の悲しみを抱えるひとへ、あたしの断片を。


或るナイチンゲール鳥が送ってくれた
チャイコフスキーによる交響曲第四番のスコアの解説


(第一楽章;主題について)これは運命です。これは目的をとげようとする幸福への衝動を妨げる運命の力であり、
それは幸せと平安とがみちあふれ晴れわたらないようにと、嫉妬深く監視している力であり、
それはダモレスクの剣のように頭上にふりかかり、しかもがんとして動かずにつねに魂をさいなむ運命の力です。
この運命の力は征服されないもの、しかもけっしておさえられないものです。
それと妥協し、むなしくなげき悲しむほかありません。」
(終楽章)
「・・・やっと我を忘れ他人の喜びの見せ物に心をひかれたときに、またしても心を休ませない運命があらわれて、
自分を思い出させます。だが、他人はあなたのことなどかまってはいません。
かれらはてんでふりむきもせず、あなたには目もくれず、あなたが孤独で悲しんでいることには気がつかなかった。
・・・・・・自分を責めなさい。そしてこの世のすべてが憂鬱だとはいわないことです。
単純ではあるがしかし力強い喜びがあります。他人の楽しみを楽しみなさい。
そうすればとにかく生きることができます!」


きっとあたしの目隠しが外れた瞬間は、この文を読んで泣きそうになったときだとおもう。
薄く濃くひろがる闇の中から、闇を切り裂き、飛び上がってきた人の切実なアドバイス
忘れちゃいけない。大事にしようと思う。


ベートーヴェンの闘いについて
ベートーヴェンの生涯」でロマン・ロランが抜粋した三つのベートーヴェンの走り書き


一、「今、運命が我をつかむ・・・」自分は光栄なく塵の中に亡びざらんことを願う!
二、汝の力を示せ、運命よ!・・・・・・我らは自らの主人ではない。決定されてある事は、そうなるほかはない。
  さあ、そうなるがよい!
三、私にできることは何か? 運命以上のものであることだ!


(あたしはこの頃ベートーヴェンの『運命』ばかり聴いていた。あるときから『第九』になった。そして
「運命以上のものであること」について考えた。それは奇跡で、魔法で、神のご加護で、人のちからだ。
とその合唱の声を聴きながら思った。)


ベートーヴェンの闘いとは、魂と運命との間のそれである。」
というロマン・ロランの一文に線がひいてあった。図書館で借りてきた本、誰かがぴんときて印をつけ、その後私の手元へ。
あたしは誰かに感謝する。お陰でわかりやすく出会えたって。
ベートーヴェンの音楽を聴いて私がじんとするとき、ベートーヴェンは闘いに勝っている。
時間と空間を越えて、かれは幾千万と勝っている。


そして、ジャック・リヴェット監督の「セリーヌとジュリーは舟で行く」を観た。
憂鬱なとき、憂鬱が増すことをしなきゃいけないとき、あたしは少し時間がかかっても「そうね、面白そうだわ」と、
憂鬱な運命を笑いとばし「サスペンスで、愛憎劇で・・・最高にドキドキする!」とか言って、けたけた笑う人になりたい。
と思った。それは歪んだ顔で無理をする笑顔ではない。ただ、子供があそぶように生きていられたらいいな。
顔を上げて、耳をすまして、うたを歌っておしゃべりして、遊ぼう。
よかったら、一緒に遊んでください。