モーツァルトと私からの手紙

「お願いです、もうそんなに悲しい手紙を書かないでください、
なぜなら、いまのぼくに必要なのは、なにごとにも曇らされない魂の状態であり、
とらわれのない頭脳であり、仕事をする喜びだからです。
そして、悲しいときには、それができなくなるのです。」



或るお手紙、作曲中のモーツァルトより。
ものを書くときの、映像をつくるときの私より。


他人から悪意を向けられることは、そうあるもんじゃないと思う。
しかし、まあ、出会ってしまった。それは私にこのごろ、毎日のようにつきまとっている。
どうも、思い返せばもっと長いこと続いてる気もする。
嫌悪の表現は露骨で、彼女はどうしてもそれに気が付いて欲しいみたいだ。
私はあまり彼女と親しくないから、なんだか妙な感じがする。
だけど、継続はなんにせよ力になりうる。それはひと月ほど続き、今も続いている。
さすがに悲しみの塵もつもりはじめる。彼女の最終的な満足はどこにあるのだろう?
逃げると、追いかけてくる嫌悪の銃弾。ああ、歪んでいる。まるでナチスだ。
それは降伏するまで続くのか。ほら、銃弾が飛んできた。
逃げなきゃ!
私はすっかり彼女が怖くなり、本当に苦手になってしまった。
これが、彼女の望みなのだろうか?私に耐えられぬ傷を負わせ、降伏させることが?
・・・ばかばかしい!


嫌悪を抱いたら、まずやるべきは嫌悪を棄てることだ。
棄てなければ、それは増幅され戦争が始まる。
あたしはマハトマ・ガンジーと同じく非暴力・不服従の徒である。
嫌悪が生まれたら棄てないと、自分自身がみえなくなってしまう。
それは即ち、服従するのと同じことだ。
あたしは服従する気はないし、争う気もない。
そう言ったら、銃殺されるから言えない!また飛んできた!こんどは腕をかすめた、危ない。
血がにじんだ。あたしはその血をながめて、痛さで顔をゆがめないよう我慢する。
ゆがめたら負けさ、戦争がはじまる。


嫌悪を棄てたら何が残るか? なにも残らない。ここはグラウンド・ゼロ
この不毛の地、爆撃後の瓦礫の土に、花は咲くか? わからない。
その爆薬の成分にもよるね、二度と花は咲かないかもしれない。どちらにしろ時間がかかるね。
だから戦争なんてすべきじゃないんだ。酷くなればなるほど、あなたの『自然』が失われるのだから。
彼女が攻撃したグラウンド・ゼロの復興は、いつ終わるだろう、まだ2年前の死者が中にいる。
ここに父と子と精霊でも来てくれなきゃ、花は咲かないさ。
ただ祈り、レクイエムを歌い慰めましょう、太陽は昇りまた繰り返す。
あっ まだ銃弾が飛んでる、この土地には・・・。


ナチスの制圧が終わるのはいつ?
自分の顔がこわばるのに気づいて、「元気がない」と言われてかんがえた。
非暴力・不服従、そして祈り・・・。
ナチスは話し合いの和解を望んでなく、制圧したいだけか。
あたしはオセロの黒い点で、あたしが服従すれば女王になれるんだろう、きっと
みんなに笑顔を振りまきながら、冷たい凶器のような眼でわたしを見る。
その豹変をみると、この人は人生楽しくないんだろうなぁと思って可哀相になる。でも私には何も出来ない。
あたしは愛想笑いも、媚びも芝居もできやしない。そんなこと、そんなコミュニケーション、そんな和解、
そんな技術、マナー、あたしアンドロイドじゃないからできない。
アンドロイドの視点を思い出す。眼に映るすべてに現実感がなくなり、あたしはカメラになる、ただのカメラ、
口が自動的にしゃべっているけれど、わたしは私ではない。何度も襲う恐ろしい感覚。
わかりますか?
あたしは私の視点で生きたい。だから・・・望む戦争は始まらない。


私はひたすら、銃弾が切れるまで待つことにする。
銃弾を受けても守るものは、ただひとつ、『あたしの中の愛情』だけだ。
「おい女、壊せるもんなら壊してみろよ。」
でも、どうして?


オウテカのすばらしい来日公演で、たくさん踊った。
今年も「熱狂の日」音楽祭に行った。感動的なものをみた。
書くべきことが、大きく思い出してもふたつもあるのに、いっこうに書けない。
「悲しいときには、それができなくなるのです。」
昨日、悲しくて何もする気がおきなかった。
長期間、ずいぶんと銃弾を受けたからなぁ、とぼんやり思った。
これからの日記を書くために、まずこのことを書いておかなきゃならないと思った。
悲しみが続くなら、まず悲しむ行為を終わらせなきゃ。
「そして人生は続く」、続くのです。