フィラデルフィア管弦楽団の秘密

音楽のはじまりは呪術だった、と民俗学の本で読んだ。
悪魔を祓うための魔法、音楽。
アフリカやアマゾン奥地なんかじゃ今も変わらず歌い踊る儀式で魔を消し去り
キリスト教だって礼拝では、聖歌を歌いまくり、祈る言葉にメロディをつけて唱える。
仏教、みんなよく知ってる。読経の音楽、鳴らされる打楽器。
ヒンズー、イスラム、もっと、どんな祈りだって音楽だ。


音楽は悪魔を消す。
ひとの中の悪を消し、本来の姿に戻す。どんなに強靭でやさしい人にだって悪はとり憑く。
だから音楽は自然に広がり、増えて、止まらないし、大気圏のように地球を包んでいる。
そして、偶然のようにして音楽が降ってくる。
それは雨が降ってきたとか、カエルが降ってきたのと同じことで、偶然じゃない。
怒りや悲しみ、憎しみに覆われた心がその音楽を耳にする。ものの数秒でふっと悪魔が消えた。
私はこれを、数え切れないほど体験している。みんなそうだと思う。
それは奇跡だと思っていたけれど、それは自身が「悪魔が消えるよう」祈っているからだし
その思いから耳は澄まされ、心は求め、大気圏からラジオの電波を受信する。
その出会いは、わたしがもとめているから起きるんだ。


正確にいまから132年前、ひとりのドイツ人の身体から生まれた音楽を誰かが口づさむ。
あ、今。あたしと誰かたちが歌ってる。2008年。今同時にこの音楽を思っている人が何人いるだろう。
時間は止まらず流れていて、それはずっと誰かの楽器たちの上で鳴りつづけ、
オーディオセットで、喫茶店で、テレビから、132年のあいだずっと流れていたんだろうに
そんな長い旅を思わせもせずに、ぽんとあたしの目の前に現れる。
作曲者の魂がタイムトラベルをして、やってきてあたしとコミュニケーションをする
その音楽から伝わったことを、今やっと大きくなって意味がわかったみたいにして受け止め、
あたしはその『伝わった事柄』を心から愛する。その愛情はあたしを変える。


「オーケストラの向こう側・フィラデルフィア管弦楽団の秘密」という映画を観てきました。
映画館であたしの目の前にぽんと現れたのは、ブラームスでした。うちにはその音楽、「交響曲第一番」のCDはありません。
この映画を観て一週間、いまだに。手元にないのだけど毎日・・・1日に少なくとも5回以上は思い出して
心のなかで歌っています。ときに少し泣きそうになります。感動して。
この映画は、ブラームスの魂を私のもとに運んできてくれた人々を描いた映画だし、
映画の構成そのものが、最後の第四楽章の感動へと運ぶ道のりのように描かれています。
フィラデルフィア管弦楽団の人びとは、その『場』に縛られて表現を見失うことなく
楽団を離れて外で、まったく違うサルサなんかの音楽をナイトクラブで演奏したり
趣味や生活を楽しんで、色んなコミュニケーションをして、音楽と人生のことを考えたりしています。
その日々を通じて積み重なる感情は、彼らの音を変える。それが集合して大きなひとつのかたまりになって
そう、モザイクで描くみたいにして、ブラームスのモザイク絵画をつくるんです。
モザイクの粒は一人ひとりの心が切り出す一音であり、映画で言えばこの世界から切り取ったワンカットです。
この映画から伝わった『音楽の絵画』、そのワンカットごとの粒をみれば様々な音楽が入ってる。
けれどもそれが、最後に鳥瞰したら大きな地上絵が描かれていたってこと、その絵が途方もなくシンプルで美しく、
世界から個人の心から簡単に悪魔祓いするってのに、足元に気を取られて忘れてしまう(見えてないかもしれない)こと
そしてその地上絵をみたとき、あたしたちは自分のなかの始原に立ち戻る。


それから今いる場所、自分が今してることに気づく。
音楽はどこにでもありどこかしこに転がっており、今望むなら、あなたが歌えば始まる。
通り過ぎて、かまわず遊んで。本を読んで。映画を観て。キャンプをして。誰かと話をして。料理を作って。なんでもいい。
感じること、伝えるもの、あなたの日々。生まれるすべての表現はモザイクの粒であり、つねに世界の『モザイク絵画』は大きくうねり、
鳥瞰したときに、限りなくやさしいブラームスのようであればいいと、祈ります。この映画のように。


「オーケストラの向こう側・フィラデルフィア管弦楽団の秘密」
 http://www.cetera.co.jp/library/orche.html