イントゥ・ザ・ワイルド

この夏は東京を出なかった。だから時折息がつまりそうになった。
いっそ東京を出て、どこか知らない場所に住もうかって思ったりもした。
今ここですべてを手放してもいいんだ。家だって映像だって。忘れられた可能性の話。
どこにいても、なにをしていても、だれが縛っている訳じゃない、世界。
信じて、笑って、傷をついて立ち上がり、愛して、多く失い、多くを得て、
たどり着くのはどこなんだ。神様、あたしはどこで死ぬの。
・・・誰だっておもうことだ。


ショーン・ペン監督の「イントゥ・ザ・ワイルド」を観に行きました。
主人公は文字通りすべてを棄てて、身ひとつで旅に出ます。そしてアラスカの荒野をめざします。
その姿は無軌道な若者のロードムービーではなく、世界に生きることの本質的なものをみせていた。
即ち、世界はきみのためにあると思ってはいけない。きみと世界は、向き合った二本の木だってこと。


人の世のしがらみがなく、ひとが在りのままに生きられる自由。
それが彷徨う旅の素晴らしさであり、美しさだと思う。
主人公の彷徨う姿は清く、眩しいくらいに素直な魂がよろこび、ただ無垢で夢中で生きている。
まるでイエスみたいだ、と思った。
自由と孤独、自由は自分自身との対峙であり、それは真に向き合えば孤独そのものへ向かう。
自分以外誰も居ないその荒野で、剥き出しの自分自身を守り襲う孤独、かれの身体を守り襲う『世界』
やさしい出会いが幾つもある。愛を抱いてそのまま大事に懐に入れて、かれは孤独に向き合う。


この映画のラストシーンは、この世に生きる奇跡が、どっと溢れて光に変わるようだった。
限りなくさわやかで、あたたかい微笑みのような感情に包まれて、そして琴線がふるえる思いがした。
・・・こういうことをやりたくて、あたしは映像を始めたんじゃないの。
映像の奇跡を、仕事っていう概念的なしがらみめいたモヤで見失うなんてくだらない。
いつだってどこだって奇跡は起こせるっていうんだ。
親愛なるショーン様、
あたしの映像のまわりに渦巻く人の世のしがらみに、飲み込まれそうになったらこの映画を思い出します。
渦巻きに歪められたってなんだって、その中心にある自由と奇跡を追って、夢中になることを
見失わないように。
(あたしは結局ぐるりと現在地に戻ってきた。旅をしてきたみたいに、とてもすっきりと。にっこりと。
この映画はそういう映画だとおもう。今もやもやしてる人は是非、旅してすっきりしておいで!)


イントゥ・ザ・ワイルド 公式HP(ちょっとみづらいです。)
http://intothewild.jp/top.html