ある栞の話(心と目の盲点について)

(なんでもかんでも、考えすぎなんだ。)
このごろ、かんがえすぎる自分に嫌気がさしてしまっていた。
ひとりっ子の性だと思う。かんがえる時間が長いのだから。
かんがえるのは楽しいし、かんがえていないと、退屈したり寂しくなったりする。
大人になればなるほど、経験と行動が伴ってかんがえは多岐にわたるようになる。
幅広く、くだらないことも大問題も、善と悪の両面も透けてみえる。
美しさとともに、汚さも見えてしまう。
見えてしまったら、かんがえる。かんがえまくり・・・どこで「すぎる」のかしら?
そして、それが自分に毒を盛る行為にもなっていたことに、ついこの間まで気づかなかった。
ばかみたいだけど、わたしはほんとうに気づかずに34年も過ごしていた。
かんがえ「すぎ」ていたなんて。盲点だった。かんがえたこともなかった!


そして34年目の最後の日。
それでも、人の気持ちをかんがえるのは思いやりなのになんで考えすぎてわるいのだ、とか
仕事のことを考えすぎるのは防御のためもあったりしてかっこわるいな、とか
かんがえすぎについてかんがえまくって、疲れて、それでもなんとこれからロケである。
なんていう日に、もーやんなって電車の中で読みさしの文庫本を開いたら

栞が奈良美智さんのデザインだった。
なんかとてもほっとして、すべてばかばかしくなって、とてもちいさな幸福に満たされた。
この本を読み始めて3日目、なんで今まで気づかなかったんだろう、とかんがえてもしかたないのでやめにして
ただ、ロケに出る前に心がすこし晴れたこと、まぁ80歳で気づくよりよかったかと思えたこと
きょうこのときに、奈良さんの絵を唐突にみせてくれた神様に感謝した。
奈良さんはこの栞が誰かを救ったなんて夢にも思わないだろうし、角川文庫もまた。


或る音効さんが「俺は音効で世界を救う」と言ってたのを思い出す。
そのとき私も「私は映像で世界を救う」と言いかえした。私はそう言う彼が大好きだった。
だけど私達はイエスじゃないから、全ての人の罪を贖い悲しみを背負い世界を救うことはできない。
じゃあ私達に何ができる?いまだかんがえようとする私を見たら彼はたぶんこう言う。何度目かのコレを。
(悩むのって、無駄だよ〜)
アハハ!
最後はとても心地よい笑い声でおわるのだ。
その残像はまるっきり、奈良さんの栞の絵に似てる。
あたしはこれからあの栞のような子になろうとこっそり心に決めた。少しずつ、ちょっとずつね。