ダンスの不思議

友人が携わっているダンス公演を見に行った。
ダンスで表現するお芝居だったのだけど、開演前にあらすじを読んでみたら
かなりファンタスティックでよくわからなかった。
実際に始まってみると、すっかりそのあらすじを忘れて(もともと把握できてない。。)
見入って、無意識にストーリーを見出して、それで終わった帰り道に
もういちどあらすじを読み直すと、ダンサー達の伝える感情・意思はだいたい合っていて
物語は、細部も大筋も違ってた。
ちょっと、びっくり。こういうのを変奏曲というのだ、と思う。
台詞がなくダンスだけで伝えていたから、舞台を見たひとそれぞれの変奏曲がうまれていたのかな
と思うとおもしろい。
その変奏は、そのひとなりの感受性のかたちに由来するストーリーなんだろうとおもう。


ダンスは不思議だ。人体のなぞだし、生命力の宇宙の断片みたいだ。
音楽で踊るとき、地球の核からリズムがぐわっと私の足下へと押し寄せてきて
否応ない力で吹き飛ばされるように、足が身体が止まらなくなることがある。
たったひとりですらこうなんだから、何人ものひとが舞台の上で踊るのはどういうことかとおもう。


集団のダンスでひとつだけ強く記憶に残っている体験があって、体育会でのダンス。
私の高校では毎年、卒業生全員で踊る伝統演目があった。「ペルシャの市場にて」
今思えばコンテンポラリーもいいとこな振付で、足首に鈴をつけて、質素な衣装を着て踊る。
いつものグラウンドが、ペルシャ地方の土にみえた。熱砂と土埃、水瓶を頭に乗せて、人ごみのなかで
私達もペルシャの人々になり、日々を営み、日々の思考の断片が集まり、或る夜の踊りに集約される。
聖なる夜に、市場が踊りで満たされる。
(そんなストーリーを誰も話してないし、私がそのように踊っただけ)


練習をたくさんした。そのときに感じなかったものが、本番のいちどきに押し寄せてきた。
振付を不自由に感じて動ききれなかったのに、音楽に合わせてすっと立ち上がった瞬間に
振付のことなんて忘れた。勝手に身体が動いてしまっていた。
周りの友達も私もペルシャの誰か、強い日差しと真っ青な空、音楽。聴こえないのに異国の喧騒が響く。
伝統行事だから、終わると泣く子がいっぱいいる。私は泣くよりもっと、ぼうっとしていた。
まぼろし体験だった。
音が止まり、立ち上がるといつものグラウンド、拍手する先生たち、顔を見合わせるいつもの友達。
わたしはいまどこへ行っていて、誰だったのかしら?
わたし、いまここで、誰なのかしら?


音楽と踊っていると、のちにクラブなんかでこのように、本当に宇宙空間へ飛ばされたように思ったり
自我そのものが深く深くどこかに向かって潜っていく感覚を、よく体験するようになる。
肉体が動くことそのものが精神に働きかけることや、心から感動的な美しさを得たときに身体に働きかける
人体の宇宙は大きな宇宙そのものの一部であり、ひとつに繋がっていると何度もかんがえた。
音楽は地球のリズム、振動だってことも。


ダンスのふしぎ。
NHK教育「芸術劇場」のモーリス・ベジャール特集をみた。
本当にすごかった。ボレロ春の祭典、クイーンの音楽。
静寂と躍動の温度の激しさ。今改めてみると信じられない芸術で、仰天してばかり。
子供のころに、ジョルジュ・ドンのポスターが居間に貼ってあった。
ポスターには踊るドンの上にモーリス・ベジャールボレロ」と書いてあったから、ずっと名前を間違えてた。
ベジャールがどんな立場のひとかも分かっていなかった。


それでベジャールの舞台を見ていると、うわぁとびっくりした言葉が出てきた。
「ルーミー ダンサーと詩人」という音楽の舞台上でのこと。
音楽はイスラム民族音楽で、白装束のダンサーたちが静謐に舞台上で動き、止まり、踊る。
ふと音楽が止み、ダンサーの動きが止まった。
そして詩の朗読が流れた。

太陽よ昇れ、原子が踊る、魂が歓喜して踊る、天空と大気に踊りを捧げる
ダンスがどこにつれて行ってくれるのか、そっと教えてあげよう

自分が踊りながら感じていたことが、正しく言葉になって出てきたみたいだった。
ルーミーとは、13世紀のペルシャ地方のとても有名な詩人だということも知った。
今日の思考遊泳がこの瞬間ぜんぶひとつにまとまったようで、驚いてしかたないのです。
では、この驚きの気持ちはこのビデオのラストに匹敵するほどでした。見てください。


モーリス・ベジャールによる、ジョルジュ・ドンの「ボレロ
http://www.youtube.com/watch?v=PQb9x6H3TlE