ワーク、ライフ、私のバランス

しごとが忙しい。
以前なら、徹夜しないと間に合わない、と判断する状況だ。
わたしは最近、その判断をやめた。
徹夜は選択肢に入れないことにした。
朝早く来て、はじめたほうがいい。断然いい。
家に帰ることが大事なんだ。


トシだから徹夜がしんどい〜といったことじゃなくて
徹夜はなんにもいいことがない。
ものづくりをしていると、しごとを少しでもいいものにしたいと思っていると、
徹夜は毒でしかない。
からだは無理がきく。でも心は無理がきかない。どう誤魔化したって、そうなんだ。
自分の心のアウトプットを続けて、インプットができない。
些細でもインプットがないと、心はたちまち消耗して狭く苦しくなっていく。
いったん、ものづくりから完全に心を切り離す時間が必要なんだ。
一日に一度は、かならず。


だから家に帰ってしまえばいい。
家には生活が待っている。すくなくとも、編集機はそこにはない。
そのかわりに、炊飯器やじゃがいもや洗濯物がある。テレビや映画やベッドがある。
いまでも時々家で仕事の原稿を書いたりするけれど、ふと顔を上げると活けた花がある。
家事はたいへんだ。だけど生きている実感があふれる。
だからばかばかしくても深夜にいっしょうけんめい風呂そうじをしたり、猫にえさをやる。
料理は最高だ、まったく別のものづくりをするのだから、没頭して仕事をわすれる。
体がワーイワーイとよろこぶ。


編集機やパソコンはわたしが手を動かさないと、ただのしずかな機械だ。
わたしが手を動かすには、心が必要だ。
心が狭く消耗してちいさくなっていると、狭いかんがえのなかで作られたものしか出来上がらない。
家に帰って、それからすごい早起きをして仕事をするのは体がしんどいにきまってる。
だけど心はしんどくない。猫やテレビやご飯を楽しんで、体をのばして眠ってる。
以前、忙しくて気が狂いそうなときには、家に帰ることの罪悪感や、つねに休憩中も電車の中でも
仕事のことを考えていなければ落ち着かないという焦燥感があった。
そうでなければ、演出家として成長しないんじゃないか、という盲目なかんがえ方も。
それがいい思いつきを生む奇跡もあるけれど、その膨大な時間のほとんど多くは無駄である。
そんなことよりも、家に帰ったりぶらぶら出かけたりして、自由気ままに心を遊ばせることのほうが
圧倒的に大事なのだ。
そうして仕事に戻ったとき、心がよければ手が動く。
以前なら朝まで徹夜しても間に合うか微妙だった仕事が、早朝からはじめて時間通りに終わる。
それは仕上がったとき、自信のほどが格段に違うというフシギなことにもなる。
でも、徹夜に比べれば体も心も元気な状態なんだから、あたりまえなんだな。
出来がどう違うかはわからないけれど、ソウルははっきり違うのだ。


家に帰ると猫がえさを待っている。
私は一緒に住むパートナーがいないけれど、いればそれだけで心が遊べるとおもう。
だけどそれが心の狭いひとだったり、無駄に傷つけられるようなひとだったらいらない。
それは「遊ぶ生活」の邪魔になり、ものづくりの邪魔になるからだ。
忙しくものづくりをしている最中には、悲しんだり怒ったりして思考停止してる暇なんかない。
もっとも思考を働かせるために、必要なものは「安心」と「たのしさ」だとおもう。
安心していると、たのしさをめいっぱい享受できる。些細なたのしさが心を豊かにして、元気にする。
安心は、すなわち愛である。
心がよければ手が動く。


きょうはロケで、夕方に終わった。そのあとは休日にしかできない買出しをする。
こんなにいろんなものが不足していた。食材、日用品、お花。
花を買うと安心する。空っぽの花びんは、からからに乾いた生活をおもわせる。
父の写真のそばに花がないと、なんだか父が「乾いたよー」と言っているような気がするし
家のなかに生きている植物があるのは、頼もしくて安心する。
たまっていたビデオを見た。
オーストラリアの珍鳥ヒクイドリをめぐる生活や、おからの暖かいドキュメンタリーや
陶器と磁器の違い、ミニチュアで街を作って写真を撮る写真家をみた。
サッカーの試合。中村俊輔がゴールをした。日本が勝って群衆がうねっているのをみた。


生活はインプットの時間だとおもう。それはしごとに関係のない事柄のようにみえて、そうでもない。
それはアウトプットに直結するエネルギーであり、知恵や知識や記憶である。
ものづくりっておもしろい。