神になる

きのうは父さんの三十三回忌だった。


うちの一族は人数が多い、だから死者の弔いも多い。
いままでに近い身内で八回、葬式にでているのは普通のことかと思ったら多いみたいだ。
そのなかでも、もっとも早かったのが父さんなものだから、
三十三回忌ははじめての経験だった。
それはどういうことか、というと、宗派によっては「神になる」ことだという。


Wikipediaより。
三十三回忌を迎えると「弔い上げ」といって、それを終えると死者の供養は仏教的要素を離れる。
それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一される。
祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、
その家を守護し、繁栄をもたらす神として敬われる。
先祖の霊を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶ事にはこのような意味があるのである。


すごい。
うちの父さん、神になる。
先祖の霊って、親なんだけど。私にとっては。
と思いながらも、なんだかすばらしいことのようでめでたい。
子供のころに、うちの父は神だけどなにか?と思いこんでいたことは
たぶん私の人格形成に大きく作用していた。
片親家庭を悲劇的に捉える世間の見方は、わたしにはさっぱり理解できなかった。
かわいそうもなにも、うちの父は神なんですけどなにか?
あたし、神様の娘だし。その根拠のない自信で色々なものをなぎたおし、転んでも平気なはずだと信じた。
差別やいじめもまったく退屈に思えたし、あたしの父さんは神様だからそんなこと言うとばちがあたるよ、
と、よく言った。神様なんていねーよ、と返されても相手にしないほど強く信じていた。
見上げる空には父さんがいる。絶対的に、いつも。
フィッシュマンズの歌の「この空だけがいつだって味方だったんだ」という歌詞には
私の聴く場合、そのなかに父さんがすこし含まれる。
私はある意味はげしいファザコンだとおもう。


そんなこどもの思い込みが現実的な数字をもって「神になる」と宣告されると
がぜん三十三回忌の法事に興味がわいてきた。
それは見慣れた光景だった。だけど時折、父さん母さんの名前が呪文のように現れることや
いま魂がこの狭いお寺のなかを飛び回っているのかな、と思うととても近しく感じた。
父さんは神になる儀式において、個人的な感情や記憶をいま走馬灯のようにみているのだろうか、
とか、幽霊のようなひとの形がいま粘土みたいに変形している最中なのかな、とか
でも実は、一番想像したのはうちの父さんが最後の自転車レースを激走している風景だった。
もうすぐラストスパートなんだ。終わるとき、全身が光って空の向こうへ散っていく・・・


法事が終わると、お坊さんはあっさりとこう言った。次は五十回忌です、って。
あら、そうなの。。うちの宗派だと、まだ父さんは神ではないのかしら?
十七年後、うちの父さん、神になる!?
神の娘になるにはまだ早い。のかな。


晴れた日曜の午後、父さんのお墓に八人の親戚が集まる。
こんなに沢山の人がおなじみの墓の前に居ることが、初めてですごいうれしい。
親戚達の前で、わたしはやっぱり、圧倒的にひよっこだとしみじみおもう。
社会に出てディレクターになって、えらそうなこと言ってたりしたって、
彼らのがしっとした確かな笑顔にはかなわない。
やっとなんとなく近づいてきたかもしれない。それでも私は彼らの前で、
とても無防備な子供にもどる。
親戚達の変わりようがない愛情に、わたしはしっかり魂を包まれる。
空はこんなに晴れているのだから、父さんは気分がよいのだきっと。
お墓の前で八人の親戚がわらっている。