ささやかな破壊活動

あぁ、よくできた!
GWをつぶしてやっていた仕事が終わった。自己ベストが出たとおもう。
ものづくりが終わるといつもそのように思うのだけど、今回はとくに
あー面白かった!という感情がその場のクライアントや、代理店や、スタッフ全員に
沸き起こったことがとても嬉しかった。
それはいわゆる通販CMで、とくに終わった後にプロデューサーがぼそりと
「通販にしてはすごく面白いものができたな」とつぶやいたのが印象的だった。
嬉しくえばりながら、わたしが演出したのだから当たり前です、と言った。
腐った通販番組をぶっ壊す。その目標がひとつ達成された。笑いながら破壊した。とても健全な気持ちだ。


アシスタント時代に老舗の通販番組に付いたことがある。
毎日放送しているレギュラー番組だった。ベテランの司会者が製品をひたすら紹介する。
正直言うとはじめは退屈でしかたなかった。撮影するもののフォーマットが決まっており
演出の工夫の無さや現場のやっつけ感、段取りどおりの収録と完成品、厄介なクライアント、
すべてがいやでしかたなかった。
でもいやがってても仕方ないので、少しでも満喫しようと色々に目を向けた。
おもに技術さんの照明づくりやカメラのとらえかた、人間観察にせめてもの演出の勉強。
だけど自分がこのような番組を演出したいとはとても思えなかった。あのときまでは。


それは、ある日の収録の前のこと。司会者さんがクライアントの無理強いに逆らった。
この台詞はまったく効果的でない、というようなことだったとおもう。
司会者さんは私が驚いてしまうほど主張してその場がもめた。


視聴者が、買う予定のなかったバッグに出会って、どうしようか悩んで、価格と自分の懐具合を考えて、
そして自分の毎日に取り入れたいと思って、電話番号をメモして、受話器を上げる。
それがどんなに大変なことか。たった二分間のあいだにひとの心を動かす魅力を伝えるにはどうしたらいいか。
私はいつもそう考えて、カメラの前で話をしていますよ。TV通販はチラシのように手元に残らない。
たった二分間で消えてしまうんです。


司会者さんはそんなことを言った。
わたしは退屈に感じながら現場にいたことをもうしわけなく思ったし、オンエアを受け取った視聴者のことを
見ていなかったことに気づかされて、そうか、と思った。
司会者さんの主張が通って収録がはじまって、わたしの「そうか」はしゅんと小さくなった。
あぁやっぱりこうなってしまう。
司会者さんの製品への熱狂や、伝えたい魅力。
伝わらない。これじゃ伝わってこない。見慣れたおとなしい映像のなかに司会者さんの熱狂が埋もれる。
それはとてもかなしくくやしいことで、そして・・・わたしだったらどうするか。そのとき初めてそうかんがえた。
それ以来、退屈だった収録にいつもそれをかんがえるようになり、想像してこっそりとたのしんでた。
しかしほどなく他の番組に移動することになり、その現場から離れた。


今こうして演出を担当してやっている通販の仕事は、演出家として死んだ魚の目みたいな映像は絶対に作らないことと
わたしなりにTV通販を(昔ながらのやっつけ感も、今流行の過剰な脅しプロパガンダも)破壊することで
そしてなによりも、すべての映像表現を、わたしの眼を通した世界観により作り上げることの一環だ。
日常のささやかな会話がたのしかったり、ごはんを見直してみようと思ったり、しっかり向き合えば生活はゆかいだったり
そういう明るい幸福を誰が見ても、多くのひとに伝わるように表現する。
「演出」の誤用が目立つから書いておく。演出とは、自分や世界を過剰にみせたりうそを積み上げることではない。
演出とは、自分がすてきに思うやりかたで、自分の思いを伝えるための手段です。
それはコミュニケーションです。