映画「スローターハウス5」

事件です。
1972年、ジョージ・ロイ・ヒル監督、カート・ヴォネガット原作、グレン・グールド音楽
映画「スローターハウス5」がDVD化されました。
予約して首をながくして待ち、昨日家に帰ったら届いていた。
きょうは、これを観たくてたまらなくて早く帰ってきた。
観終わりました。ほんとに映画らしい映画でした。映画のなかの映画。
なんてさりげない・・・大袈裟でない、凝りすぎてもいない、騒がないうつくしさ、静けさ、誠実さ。
総尺99分。原作をとても愛する身としては心配だ。収まらない絶対収まらない、だけど
正しくこれは、映画「スローターハウス5」だった。
あぁ素晴らしい。これはいい。小説の映画化、とはこういうのを言う。


あの小説はそもそも時間の断片のかたまりなのだ。
その断片を飛び飛びに物語りながら、ひとつの真実を伝えている小説。
ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた。
かれの人生は終わることがない、生きているあいだの人生をとびとびにタイムワープさせられている、
かれが死を迎えても、終わることのない「存在していた時間」のなかで生き続けている。
そういうお話。そういうSF。トラマファドール星、ドレスデンの大空襲、アメリカ人の上流生活、
様々にめぐり、とびまわり、それはSFだ。時間軸がめちゃくちゃのなかで生きる人生。


それは、映画の構造と自由そのものだ。
観はじめてまずわかったのはそのことで、何をしても、どんなに針飛びしても
映画になると、それはとても普通に受け入れる視覚体験になる。
かといい小説が映画的かというと全然そうじゃない。あれは小説のなかの小説。
さぁ、どうする。
ロイヒルがとったやりかたは、主人公ビリー(=ヴォネガット)をごく傍で、かれのいる風景と事象を
ていねいに見つめて描いていた。
そのカットの断片を積み重ねて、小説と同じ真実を映画で表現した。
偉業だ。ヴォネガットの壮絶な、恐怖とたたかうマシンガンのような冗談・皮肉をまるで描いていないのに
同じ真実が映画として、ロイヒルの静かに素直にあたたかい目線を通してそこにある。
なんてことだ!びっくりだ!そしてこの小説を熱く愛する私は、この映画がだいすきだ!


ヴォネガットがこの映画を「小説より良い」と言っている。
このSFの設定は、SFを剥いでみれば日常のこと。
思考が飛び回る、記憶がなんども、唐突に、蘇える。目の前のだれかとお話をする生きる。
それはヴォネガットや私達の頭の中であり、だから死んだ人は記憶で生きてるし、消えた風景も消えていない。
ロイヒルは宇宙に拉致された主人公でさえ、日常風景の断片として同列にもの静かに描いていて
つまり、99分の映画にするとき小説を忠実に再現するのではなく、
本質を見つめて、それを映画に表現することをしている。
小説をひらいて思い返せば、じつにあっさりと映画に再構築している、と思う。
ヴォネガットがそのように評価したのは、自身が憑依して書いたその作品を
この映画をもって、はじめて冷静にみつめられたからじゃないかと思う。


宇宙なんかすごい勢いでセットだし、色々に時代を感じる箇所はあるけれど
それもまたチャーミングというものです。
配役がたいへんよく、ビリーはこのひとしかありえないと思います。
グールドはチェンバロを弾いていて、たいへんに美しく、天上の星々のような音色を響かせるし
なによりも原作とは違うラストシーンが素晴らしい!!!!!!
妙なことを言わせてもらうが、ヴォネガットの映画化は、映画でしか出来ない。

スローターハウス5 [DVD]

スローターハウス5 [DVD]

みてね!