東京湾岸

ここ数日、芝浦の東京湾岸にあるスタジオに通っている。
この辺りは空が広くて、水辺の潮の匂いが漂っていて気持ちがよい。
東京湾に繋がる運河が街のなかに流れており、のんびりとしている。
川はひろく水上バスがたまに走る。東京湾景の傍はここでも寂びれている。
埠頭のある街はどこでも水辺が錆びていてすきだ。


仕事の休憩をしていると、窓の外からカモメの鳴き声が聞こえることがある。
あぁなんだか旅行に来ているようだな、となぜだか思う。
まるで時間が止まっているように静かだ。ゆっくりと川が流れている。
東京じゃないみたいに静かだ。外の街はどこかの地方都市みたいに感じる。
わたしはとても安心して、心の眼が潤い透明になる。


都市開発で多く建てられた高級マンションも、街はとくに気にしていない感じだ。
建物は間隔がひろく、もともと倉庫街だからごみごみしていない。
人は少なくもないけれど、多くもない。
湾岸の埋立地ぶっきらぼうさが、うまく育った街だなぁとおもう。
でもここは私が知る限りの昔から、あまり変わっていない気がする。


舗装された(夜はライトアップする)沿道は、ジョギングや犬の散歩をする人びとがいて
おしゃれな感じを醸している。
でも高速道路を挟んですぐ向こうには、ざらりとした色の少ない倉庫が並び、
ひとけのない埠頭がある。芝浦のいいところはここに尽きるとおもう。
埠頭というのはどうしていまも、いつもこうも、人の匂いがしないのだろう。
いつも思う。かならずここで働いている多くの人がいるはずなのに、何て無機質な誰もいない場所。
だけどはっきりと人工的で、海に向き合っている。
きっと海の匂いが大きすぎて、ひとはかき消されてしまうのだろうと思う。
ここはとても「東京」らしい。


湾岸は「東京」がほとんど唯一自然と向き合っている場所だと思う。
大きな山の麓にある街のように、どこかでひとと自然をざくっと切るボーダーがあって
ここから先は自然、というのがはっきりしている。
そのボーダーが人工的で無機質な埠頭というのが東京らしい。その先の海は決して透明ではなく
海をめぐる幻想が、とくに情緒的にあるわけでもないのも東京らしい。
たとえば海浜公園を幾つか作っても、そこが素晴らしく豊かな海辺の行楽地ではないこと。
どちらかといえば殺伐としていて、どうしても甘くやさしくはなれないこと。
いまの東京都心は甘口が過剰に過ぎる。
渋谷や銀座や六本木なんかは一度、東京湾と向き合ってすこしすっきりすればいいのに、と思うよ。