チャコが戻る

うちの庭に来る野良猫、チャコちゃんがこのごろ来ていなかった。
まる一週間以上顔をみせないのは初めてで、どこかで元気でいることを願ってたのだけど
きょう、ふらりとやって来た。
怪我していた片目がきれいに治っていた。とてもきれいな目のままで
何か殺伐とした、ひどい修羅場を終えたばかりのような、悟り傷ついたような顔をしていた。
からだは痩せて、首と背中のあたりの毛が抜け落ちて剥げていた。


抱きしめてあげたいしなでてあげたいし、家のなかで守ってやりたいと私は思う
けれど、チャコちゃんはその発想もなく求めてもいない(と、思う)から
また、わたしはわたしのできること、チャコちゃんの喜ぶえさを精一杯やるだけだ。
チャコちゃんは周りを見回す。なにか警戒をしていて気が張っている。
だから今日は、雨だったので傘をさしてすこし傍に立って、
えさをめぐる喧嘩などのトラブルが起きないように見張ることをした。
チャコはその行為の意味を悟ったのか、警戒をやめて食べることに集中しはじめた。
えさを食べるチャコちゃんを上から見下ろすと、とても痛々しかった。毛が剥げている首。
食べ終わり座りなおしてわたしの顔をじっと見上げた。
色々に話しかけた。どうしたの首、どこにいたの、お腹あまり空いてないんだね、元気ないね。
私が見てるから食べなよ。残さないでもっと。大丈夫よ。食べれば治る。
話しているあいだチャコはじっとわたしの目をみている。動きを止めて、じっと。
安心させてやりたかった。ここに来れば安全にえさが食べられることを、いつでも。


さっき夜にまたドアを開けてみたら、トトトっとしなやかなチャコちゃんが駆けて来る影がみえた。
やたらとすごくうれしかった。その影には首の細さが見て取れたけれども
いつも通りにかるがるとした動きで塀をのぼりふんわりと飛び降りるのをみて
またわたしを見上げるきれいな瞳に、わたしがとても安心した。
チャコはどこかでひとりでいて、目の傷を治していたのだろうし、その間に猫のいざこざなどがあって
怪我や病気にかかったんだろうとおもう。
ただ元気で、わたしの前に現れてくれたことがとても嬉しくて、
意味のわからないなりに私が話すのをきき、ダイレクトな感情を受け取っていただろうことを
またやって来る、という行動で示してくれたことが愛しかった。


野良猫はそのようにふらりと姿を消し、会いたいときにやってくる。
会いたい、というのは猫自身が、心身ともにこのヒトに会えるコンディションだと判断するということであり
離れるときもそのように判断するものだと、いままでみつめてきた野良たちをみて思う。
ほんとうはこれはそのままヒトにも当てはまる。
だけどそうしない、判断できなかったり誤魔化したり、しかたなかったりして見過ごすしかない状況がある。
生き物として世知辛い状況なんて猫社会だっておなじだ。
ずっとどこかの軒下でひとり、傷を治すチャコを思う。わたしは、頼ってほしいと思いながらも
たいへんに共感する。
日々、世界とシンプルに一点の曇りなく向き合いたいと願う。
そのために、出くわした悪意や怒りの毒を、一刻もはやく自分自身の心身をもって消化し消火する必要がある。
心を濁らせたままでいてはいけない。身体が痛んだままではいけない。
自身の消化に限界があれば、安心できる誰かを頼ればよい。親友でもマッサージ師でも、医者でも。
まず自身がクリアにならなければ、状況もひとの心も、全体も個人個人も見えなくなる。
コミュニケーションは純粋な愛情であるべきだ。
わたしはわたしの眼で世界をフラットに見ていたい。邪念も偏見も悪も雑音もなく、ただ
毎日、いつも、できうる限り。