頑張った自分へのご褒美、もとい

頑張った自分へのご褒美、という言い回しが陳腐に響くのは
消費を促す広告キャッチで乱用され過ぎたことや、頑張りのあとにモノかい、
という居心地のわるさがある。とおもう。
このあいだ「グラン・トリノ」を見て欲しい気持ちを話していたところで
ぽろっと「ご褒美に」と口走っていて、頑張った自分へのご褒美というのは
まさにこういう映画をみることをいう、と思い、かんがえる。


頑張るとその先に(少なくとも精神的な)成長や発展があるものであり
それがないのなら頑張ったとはいいがたい。
ご褒美という言葉も、なんだか頑張った時間を上から目線で見下ろしてるみたいな感じがする。
自分で自分の上に立つなんてややこしいので、ただの「お楽しみ」でいいんじゃないか。
よって私はこれを


またひとつ成長した自分へのお楽しみ


とする。字面がごつごつと追い詰められてなくていい。ごく日常的な感じ。
「頑張った自分へのご褒美」もとい「またひとつ成長した自分へのお楽しみ」は日常的であるべきだ。
がんばって、成長して、たのしんで(また成長して)毎日が過ぎる。
がんばるの中には苦しむも夢中になるも含まれる。
それが一息ついたら、「グラン・トリノ」のような素晴らしい映画をみたりして
自分自身の心の幸福のためにお楽しみを享受する。
幸福は、疲れをとる。


このごろ仕事が予想よりも早く終わることが続き、すっきりしていて喜ばしいので
会社に戻るまえに、すこしお楽しみをしてから帰る。
べつにそれは、ただなにも煩わされずに読書をするとか、物語をかんがえるとかいう
じつにありふれた自由行為だけれども、ちょっとうれしく感じる。
お楽しみは大小問わず、日常的にいっぱいあったほうがいい。わくわくする。


わたしにとって、またひとつ成長した自分へのお楽しみは
このごろなら「グラン・トリノ」だったし、ウッディの新作映画や池澤夏樹の新しい小説、
テレビで週末に「探偵ナイトスクープ」や、水曜の「水曜どうでしょう」なんかを見ることだし
時間を気にせず本に没頭するのも、放浪も、大好きな音楽やすてきな芸術・・・と
モノじゃなくて体験ばかりだ。
モノは必要だったり欲しくて買うものなので、お楽しみとは違うとおもう。


頑張った自分にご褒美をというのなら
ご褒美は日常的に、自身のこころに与えよ。
日々成長しているということを忘れがちだけど忘れずに。


という訳できょうは水曜。これを書くうちに、今日のどうでしょうの録画がおわりました。
これから小さくお楽しみをはじめます。