ハイジの記憶

このあいだ、久し振りに中学からの親友に会った。
彼女には娘がいて、ただいま幼稚園に通っている。太陽のひかりのように明るい子。
娘はすこし前までアンパンマンNHKのこども向けキャラに夢中だったのだけど
少し成長して、同年代のほとんどの娘っ子たちが熱狂している
女の子向けマジックアニメ(プリキュアとかセーラームーン?)には移行せず
いま、アルプスの少女ハイジにすごい勢いで熱狂しているらしい。
DVDのボックスセットが発売されて、お母さんのほうが嬉しくて買ったら
娘がもう気に入っちゃって、泣いたり笑ったりまねっこしてあそんだり、大変なはしゃぎよう。
幼稚園のおともだちに話がつうじないのもお構いなしで、むしろハイジごっこ
おともだちに教えこんで巻き込んでいる。もちろん自分はハイジで、女のおともだちはクララで、
男のおともだちはペーターかおじいさんという配役(笑)
いまを生きる子供がみても、やっぱり響くのだなぁと感心する。
わたしはハイジをリアルタイムで見ていて、この娘と同じくらいの年齢のころに。
今でもハイジという言葉を聞けば、自動的にあのヨーデルのテーマ曲が流れて
たいへん明るい気持ちになる。あの大きな青空が浮かぶのです。


わたしはむしょうにハイジがみたくなり、アニメ100円レンタルの日、ピープルへ行ってみた。
置いてなかった。残念なので図書館へ行って、本をさがしてみようと思った。
ハイジの絵本か挿画つきの児童書があるだろうと思って。(昔読んだきがする)
しかし・・・・・・
図書館のこどもコーナーに入ると、そわそわしてしまって、すぐにべつのところへ逃げた。
なんというか、こどもコーナーはこどものためにあるのだ。
熱心に本を物色している少女がいた。熱心なのでわたしには目もくれないしどうでもよく思ってる。
きっと。でもかつてその少女側だったわたしには、このあんしんエリアに大人がいると
皆せんせいにみえたし、たいがい一人で図書館に行ってたし、お母さんと行くときにも
入り口で分かれて、それぞれのコーナーで物色してたのしむのが常だった。
おとなは居るだけで目立つのだ。しかも、おとなが私の借りたかった本を借りそうな時には!
ずるい!ずるい!ずるい!訳もわからず何もかんがえずに、そんな風に思った。
一度、めがねの(今思うと大学生くらいの)お兄さんをそうやってにらんだことがあって
そしたら、お兄さんはわたしを見て、その本を元にもどして立ち去っていった。
わたしはにらんだことをとても後悔して、きゅうに所在無くなってしゅんとなり、結局借りないで帰った。
それは岩波少年少女文庫、ディケンズの「クリスマスキャロル」で、そのうちに買って貰えたのだけど。


そのころの記憶と感覚がうわっと蘇えり、こどもコーナーの本をこどもを差し置いて借りるなんて、と
みょうに律儀におもいなおし、大人コーナーにおさまって数冊借りてきた。
わたしは小さくてももう立派なおとなの身体なのだといたく思い知らされながら。


あのお兄さんはきっとあの後、きょうの私のようにすごすごと近くの本屋へ行ったんじゃないかと思う。。
きっと子供のころにあの本を読んで再会したくなったとか、大人の眼で鑑賞できる素晴らしい絵本や
自分のこどもに読ませたい物語を求めて。そんな理由で、おとなはこどもコーナーにやってくる。


本屋でハイジを見つけられたのは、DVD化されたから特集を組んでいた「MOE」という絵本専門雑誌のおかげ。
MOEの誌面でハイジのアニメ画像をみて、おどろくほど全部覚えていることを知る。
この記憶といったらなんでしょう。たくさんの画像が、全話ダイジェストで掲載されているのだけど
全部覚えている。干草にシーツを被せたベッドやミルクを入れた木の器、水汲み場で水を飲む姿。これらのアングル。
記憶は些細に何気なくすべてわたしの血と肉となりこの身体に収まっている。
おどろいた。ハイジが宮崎駿の作品だったということよりも、アニメ初海外ロケハンが行われていた事よりも
だいぶおどろいた。


いつかあるとき突然に、遅くても死ぬ間際の一瞬にわたしは
今は完全にかけらも思い出せない父親の記憶を思い出すはずだと信じている。
視覚記憶はこのようにして、忘れていても失われはしない、ということを思いしらされて
(いやな記憶はすべて葬りたいけれどそれを補ってあまりある)安心感をえた。


ハイジ買った↓装丁がきれいで嬉しいです。

アルプスの少女ハイジ (角川文庫)

アルプスの少女ハイジ (角川文庫)