それでも恋するバルセロナ

ウッディアレンの新作「それでも恋するバルセロナ」を見てきました。
さぁNYのレディ2人が、バルセロナでハビエルとうっかり恋に落ちてしまって大騒ぎ・・・
・・・という映画じゃありませんでした!
だいたいにおいて多くの恋愛映画と呼ばれるものは、観客に擬似恋愛的な一体感を与え
共感なのか納得や憧れなのか、そういった近しい感情を生み出すものです。
ウッディの素晴らしいところは、毎度毎度、恋愛映画を撮りながら視点移動をしている点で
今回の「バルセロナ」はどんな具合かというと、その場所で生まれてぐるぐる回転していく恋愛を
『ヒト種のアイデンティティと感情の変化』の研究サンプルのような目線で描いているのです。


生真面目で頭がよく、理想的な婚約者がいる女性が、いざ恋で新しい自分を自覚すると
さまざまに言い訳しながら浮気をはげしく望んだり
隙だらけの軽い女性が、失恋したばかりで都合よく現れた伊達男と簡単に恋に落ちても
自分の欲しくないものは判るけど、欲しいものが判らないと言って恋人のもとを去ったり
バルセロナのある街角に居合わせた3人の男女。
かれらの、恋というハコのなかで推移する感情と関係の変化が、くっきりと見通せる。
台詞を言いながら、そこに見え隠れする本心も同時にみえてしまう。
まるで、テロップで(本心)が表示されているみたいに。
ラストは「マッチポイント」級にむなしく、ウッディがカメラの後ろで、今回は笑ってはいない。
大恋愛の正体見たり、目が覚めれば。運命なんてこんなもの。また彷徨う魂。
そのうちこの滑稽さが笑える。ウッディはカメラの後ろでじっとしている。


恋愛というコミュニケーションを通して、すこしずつ変わっていく自身の変化への戸惑いと
変わってしまった、或いはやっぱり変わらないことへの怖れ。
ヒトの不確定要素の大きさに、飲み込まれそうになる怖れ。
お互いの変化を受け入れ続けていけるか、不必要な忍耐や努力なく、ただ関係において
変わりゆく自分自身が、心も身体も心地よくいられるか。自分をゆがめてまで一緒にいるべきかどうか。
そうやって悩み、かんがえるのは、結局のところ自分が生きたい方向と、恋で鏡を出されたようにして
見えてしまう現在地点が、すてきに見通せるかどうかに懸っていて、そう判っているからだ。
これはまあ、じつはすべての関係において言えることなのだけど。


わたしは時々思う。○○年のあのころの○○君はひどく愛しい。けれどもうどこにもいない。
恋してた気持ちと風景だけ鮮烈に覚えていて、そしてかれもわたしも変わってしまった。
今また会ったら、わたしたちはそれぞれがまた、合うように変化していたりするんだろうかって。
そういう喪失感と希望も、この映画ではあっさりやっている。しかも驚き(ファンは爆笑)のオチがつく。
先日みたウォン・カーウァイの「マイ・ブルーベリーナイツ」のなかにも、このように
主人公のジュード・ロウのもとに、昔の恋人が訪ねてくるシーンがあってちょっと泣いちゃった。
あのころの何かを確かめに来て、もうどこにもないとお互いに悟るっていう
変化を自覚するうつくしいシーンだった。
その直後にこれかい、と思うと笑えるほど、ウッディはこの真逆のやりかたで、変化の自覚を表現しまくっている。
パーンとあたまをなぐられて、目が覚めた、というものすごい突破ぶりだった。いつもの・・・そんなウッディがすきです。
ウォンはいい人、ウッディは容赦ない人。
ウォンはロマンティックにみつめて、ウッディは動物観察のようにみつめている。
わたしはどちらの監督もごく個人的に超愛している。


それでも恋するバルセロナ。いい邦題だと思う。なかなかに正しい。ただ惜しいことに映画の視点が出ていない。
原題は「ヴィッキー クリスティーナ バルセロナ」動物観察的だと思いませんか。
それでも恋するバルセロナ
http://sore-koi.asmik-ace.co.jp/
それにしても、ペネロペ・クルスは凄すぎる!びっくり仰天の強烈な存在感です。
なんかもう、全部もってかれた感が物凄い・・・スペイン語でまくしたてまくり。今回の飛び道具はこの人です。