孤宿の人

ひとの心には誰しもみ仏がおられる。
ただ、心が邪念で覆われたら、み仏は見失われてしまう。
邪念が渦をまき伝播してしまえば、この世はみ仏なき無情の世界となる。
いまの世はどうだ。


宮部みゆきの「孤宿の人」を読みました。
江戸時代の田舎藩のお話で、そこに江戸から流刑人が送られてくる。
それはかつてとても偉い勘定奉行だった人物で、突然物狂いで妻子と部下4人を斬り
鬼に取り付かれたとされている。
ちいさな町はその人物を引き受けることになってから、呪われたとして不審死が相次ぐ。
「呪い」への不安が町中に広がりながら、それを流布するよう仕掛けるお上の存在や
「呪い」を隠れ蓑にした悪事が、黙って覆われていく。


群衆のおそろしさは、邪念の伝播、生きる幸福を削ぐ汚れの伝播が猛スピードで広がることだ。
腐ったリンゴをほうっておくと周りもどんどん腐る。
ネガティブな感情や、わるい思いというのは、語るそばから伝播する。
み仏はかんたんに見失うことができる。きっと、気づいていないだけで。


たとえばわるいことを見過ごすのは、み仏を自ら覆う行為だ。
うそを言うことは、違うと思っているのに我慢して従うことは、エゴのために卑怯なことをするのは
み仏を押入れの奥に押しやることだ。
それらはくるしい。ひとの中のみ仏がいきていないから。そのひとはくるしい。
続けば無情の人となる。それは、慣れだ。とてもかなしい慣れだ。面をかぶるしかないなんて。
面だらけの世は無情の世界となる。そんな、そんな、そんな。


この本はまるで、わたしは闘う、という宮部みゆきの意志表明のようだった。
そのやりかたはマッチョな鬼退治でなく、ひとの清さがなによりも強い光となってこの世の濁りを照らす。
そういう闘いだ。
そしてみ仏はこの世のどこにもおわすことを、覆われた人びとに思い出させる。


宮部みゆきは時代物、現代物ともに、ひとが罪を犯す「理由」をみごとに書く。
その視点が公平で、ひどく冷静で、しっかりと暖かいのがわたしはすきだ。
プロットのうまさは言うまでもない。物語のつよさとともに、清さと潔さをいつも感じる。
それがかっこいい、と思う。そしてそのかっこよさの根っこが、彼女の闘う意志であることが
この本に凝縮されていた。


わたしはマイケルジャクソンの圧倒的な光を視てからというもの、いつも思っている。
その光に浄化されて、醜い諍いがとまる、とじた心が放たれる、
そういった清い力をもって闘いをするにはどうしたらいいか・・・。
この本を読んだら、『マイケルのようにキラリとたたかう日常』とはこれだ!こういうことだ!!!
とはげしく気づいたのでした。

孤宿の人 上

孤宿の人 上