もぐのいない世界

11月3日、祝日。
晴れた秋空の朝、もぐりんが他界した。
22年生きたもぐりんは世界一の猫で、つまりわたしの世界の、一番猫である。
わたしの弟、わたしの分身、めげるとわたしは、もぐを思いながらもぐになった気で闘った。
高貴でうつくしいもぐ、がんこで我儘で、気高くて、超かっこいいもぐ。
わたしが泣いていると、泣き止むまで静かにそばにいる。家族の会話にちんまり座って参加する。
もぐは今でもきっと、自分を猫だなんて思ってない。わたしたちと同じヒト種だと思ってる。


22年というのは猫界ではたいへんな長老になる。
でももぐは、世界一かっこいい猫なので、そんなふうに見えない。歳はとったけれど。
ひと月ほど前、もぐの不調を知らされた。老衰でもう臓器が弱ってるっていう。
食べられなくて痩せてしまって、もぐは家で毎日点滴をすることになった。
それでわたしがお見舞いにいくと、もぐはよたよたでも、尻尾を立ててぴょんと飛び回る。
…別にあっちゃんがわざわざ来なくても、ぼく元気ですけど何か?
と言いたそうな顔でわたしを見る。
もぐは王子様、もぐは世界一かっこいい!とても痩せたもぐの体をなでて、わたしは言う。


いよいよ危ない、と知らせが来たのは先週のことで、もう最後になるかもしれないから3日に来て、
と母さんに言われた。
これで最後と思いながら会うなんて、わたしには初めてのことで、どうしたらいいかわからなかった。
だから、きっとそうやってバイバイと帰るのは無理だから、もう実家から会社に通う覚悟をして
何日か泊まる準備をした。
そうして家を出る前に、電話の音、出る前にわかった。もぐの他界。
IP電話のノイズがすごくて、よく聞こえないのだけどわかった、もぐだめだったよ、それだけは。
家の鍵が見当たらなくて、探していた15分のあいだ、わたしはずっと泣いていた。
母さんのおまじない、なくしものは「にんにく」っていいながら探すと出てくる。
だからわたしは、にんにく、かぎ、にんにく、とつぶやきながら、ぼろぼろ泣いていた。
にんにく、かぎ、あった、もぐりん!!!


もぐはうつくしい姿で眠っている。
からだは冷たくて硬いけれど、その毛はとても柔らかかった。
火葬場に着くまでずっともぐを抱いていた。
生きている間は、こんな長い時間抱きつづけることができなかったな。ぎゅうとするとおこる。引っ掻く。
胸になんにもつまってないのに、涙がずっと流れ続けている。まるで雨降りみたいに。
うつくしいもぐは動かなくなり、やがてもうすこししたら、目にみえるもぐはいなくなる。
火葬のまえにもう一度、もぐを抱きしめた。
さようなら、世界一かっこいいもぐ、超かわいい、すごいかっこいい。
ちいさいからだで、世界と向き合い、気高く闘うもぐ。
もぐは気高く他界する。


もぐのいない世界。
なにごともなく仕事をして、話したりするのがとても困難で、こういうのをふさぎこむという。
笑うことができなくて、声もおかしくて黙った、わたしが笑ったりしないのは不自然だから、体調の悪いふりをした。
心がどんどんずれていく。仕事がうまくできない。締め切りはせまる、やらなければ。
こんな時にきついこと、やっかいなこと。追い詰めないで、わたしはいま喪中なんだ、お願いだから。
それだって関係なく、わたしは会社にいるのだから仕事をしなければいけないのだ。わかっている。


落ちるところまで落ちたな、と感じたのは昨日の晩で、泥のように眠った。
その夜、もぐの夢をみた。
目覚めたら爽快で、もぐの姿がほんわり記憶に残ってた。わたしをじっと見てた目。
よし、闘う。
闇をぬけて、明けた世界と向き合う朝がやってきた。もぐのように気高く、しっかりと。


もぐの写真をコピーして、会社の机に置いた。
にらみをきかせるもぐの姿は、もぐのいない世界に馴染んだ。
誰もいない会社、ラジオをつけたら見計らったようにARBが流れた。できすぎだよ!笑いそうになった。
ボクサーのように、闇切り開け、魂こがして!
いくぞ、もぐりん!