師走の心

ああ、寒くてとてもすてき!
…と思える師走でよかった。
師走の寒さの感じかたで、自分の状態がよくわかる。
雪が降らずとも、透き通った雪の結晶やうす氷の、凛とした空気がみえればOKだ。
うれしく背筋を伸ばし、ちょっと縮こまって外を歩ければそれで。
心が濁っていると、寒さはただ防ぐものでしかなく、暖かさのありがたみも感じられない。
その身体で。


ブログを更新していなかった約一ヶ月、ほんとうは二ヶ月くらい続けて
やすみなく闘わずにいられなくて、まるで戦士みたいだった。
死なないために食べ、発狂しないように泉鏡花の本を御守にして
短時間でも集中して眠れるすべを身につけ、怒ったり泣きそうになったら席を立って
ひとりになってお祈りをした。
今のすべてを受け入れなくては。そうして、闘わなければこの日々が終らない。
やはりそれは日常のような顔をした戦場で、油断したら死んでしまいそうな気がした。


だけど、人はあんがいタフなのだ、と自覚できたらしめたもので
ダメージを回復できる自信、変わりようのない精神、それらにやじろべえのバランスで傾いたら
あとは冷静さ、誠実さをもって着実に進んでいける。
仏のこころで。


ようやっと、日々の落ち着きを取り戻してきました。
まだすべて終ってはいないけれど、人間らしい生活を送れる幸福。
帰還した夜、とてもビリージョエルの古いベスト盤が聞きたくなって、なぜかずっと聞いていて
それからサイモン&ガーファンクルをまた聞いた。
なんでそれらを聞きたくなったのか、さっぱりわからなかったけれど
それは子供のころ、ほんの幼少時に繰り返しカーステレオで聴かされていた音楽で
こどもの頃に戻りたかったのか、なにも考えずほっとしたかったんだろうなあと今日思った。
福生の風景や実家の窓からさす光や、グレーの絨毯やコロカセ(小さなラジカセ)
ねずみ色のカセットテープに、母さんの文字で書かれた黒マジックの英語、
想像のなかのニューヨークの朝、スコセッシの古い映画でみた、フィルムの街の色あい。
それらが、どこでもないどこかわたしのなつかしく戻る故郷なんだな、と思った。
なにげなく切り取られ、愛着をもって大事にしまわれていた断片のかずかずに
ビリージョエルもサイモン&ガーファンクルも、どこかで鳴っていたんだってことが
べつに改めて買うでもなく当然のようにうちにある「CD」のかれらをみてしみじみわかる。
無意識の買い物、万歳!


水…水をください…という感じで読んでいた泉鏡花のエンドレス読書も
気持ちの風向きが変わって、ようようひと段落。
やっぱりいとおしく、ふと見たくなるのでそばに置いているけれど。
鏡花につづいてこのごろは、岡本綺堂の「半七捕物帳」二巻を読んでいるところです。
半七はほんとうに、物語の伝え方がすばらしくうまいなあ…と
夢中になって読んでいます。
読書の快楽って、こういう没頭感よね…江戸の濃い闇と町にどんどん入っていく。
それにもうひとつ、ガルシア=マルケスの「ママ・グランデの葬儀」も読んでいて
江戸の怪談めいた事件とか、ガボマジックリアリズムとか、鏡花の天上天下の世界とか
結局のところ、そういう魔法が逃避先になったり、或いは心の快楽になっているんだって
しみじみ思った。
そして、それらの示すきわめて美しい真心をかならずいつか
わたしはわたしのやりかたで、表現すると心を新たにした。
我ながら…元気いっぱい♪
師走もたのしく走りましょう!