地震

日本で大地震が起きました。
友人知人のみんなへ、わたしは無事にいま、杉並の自宅に居ます。
きょうは本当は仕事三昧の予定だったけれど、すべてとりやめました。
ふたつの仕事のうちひとつの企業からは、作業ストップの命令が下りました。
首都圏の電気が危ないです。
原子力発電所や火力発電所が被害を受けることは、どれだけ生活に関わるか
それが、この先どれだけの間続くのかを、どうか考えて備えてください。
電気が使えている間や日中に、まだお店が営業できている間に、どうか停電対策を。
私たちのような仕事は電気がなければ何も出来ないことや
それでも、この事態のなかで今、年度末に仕事のかたをつけなきゃならないのか
企業の製品やハイソなライフスタイルや、それどころではないPRを映像でする必要があるのか
全チャンネルが24時間、CMを一切入れずに報道を続けているのをみながら
わたしはずっと、どうしたら立ち上がれるのか、途方にくれています。
このショック状態から、それら手元の仕事をどうやって、虚しさを抱かず冷静に、
そのうつくしさを見出しながら表現できるか
そうやってわたしの心が再開することができるか、まるで見えないです。


明日が安全な保障はどこにもない。
それでも、明日は様子をみて仕事に行きます、という連絡が飛び交う。
私もそう言った。だけど私は、この気持ちを整えて清い心で編集機に向かえるか、
仕事を再開することは、いまの精神状態ではきっと、神に祈りながら向き合う、
自分のなかの一世一代のたたかいとなるだろう、と思います。
明日が安全な保障などはじめからひとつもなかったということを、すっかり忘れて生きていた。
その愚かさとどうしようもなさに、続く余震と、原発被爆への恐怖に
心がまるで休まりません。
あのゆったりした花巻や、美しい仙台、行ってみたいと思っていた気仙沼、釜石の街が崩れている。
悲しく、どうにもならない。
わたしは先日、イーストウッドの最新作「ヒア・アフター」を観たばかりでした。
映画は、突然の大津波から始まる物語でした。大津波、交通事故、突然ひとは無くなり
本質のむきだしを余儀なくされる。うわべのものは剥げ落ちて、ゼロになったとき
その深い傷と悲しみを経て、こころから安心していられる誰かがこの世にいる尊さを伝える映画でした。
とにかく今わたしが思うのは、ひとの無力さを思いつづけるときりがなく
無力さを受け入れて立ち上がる強さを、無力なりに切り拓き、生きられるだけ生きる知恵と穏やかな心を
取り戻さなければ。それだけです。
出来るだけの手をとりあって、死ぬまで生きていくために。


被爆したときに有効なのは昆布だそうです。昆布を備えてね、それに防寒や節電や、いまTVやラジオで
ずっと流れている情報をしっかり受けて、正しいと思う判断をしよう。
いまはいましかない。明日も、一分後の未来もわからない。いまできることをして、備えられることをしよう。
防災袋をつくるとか、電気が使える間に料理をしておくとか、お風呂に入るとか、
店がやっているうちに買出しをするとか、危険な位置にある家具を動かしておくとか、
そういうことを積み重ねて、すこしずつでも、生きる自信をつけていこう。
どうか、みな無事で。