東京の翳り、地震で落ちてきた本

きのうから、わたしの仕事場は自由出勤になりました。
何もなければ来なくていいし、会社の定める定時を守る必要はない。
この事態は、わたしたちの働くルールを変えました。
電力が足りず始まった計画停電で、規律正しく時間を守れない状況になって
二日目のきょうは少しずつゆるやかに、建て直してきたように見える。
けれどそれは人々がこの状況を受け入れて慣れはじめたから。
福島の原発は刻々と危うく、僅かに東京にも放射能が飛散しているとテレビで言っている。
わたしは今日も、すこし時間をずらして仕事へ行き、定時ごろまで働いて帰る。


日曜は編集機に向かうことが出来るかとても不安で、この日記に書いたけども
さあ、とそれら記録された映像をみると、すっと心がまとまって、
自分で驚くほどのスピードで脳がイデアに向かって進んでいって
オペレートする手が追いつかない位だった。
ひとが無心に楽器を弾くような、カンバスに絵を描くようなそういう感覚。
迷いというものがひとつもない状態でただ進んでいき、3時間ほどで「終わり」を決めた。
私は私なのだ、と思った。こわくて、不安でかなしくそれでも、それなのにも関らず。
私のなかの映像の神様が、ちいさくなってるわたしを蹴散らしてぬっと現れたみたいだった。


会社ではずっとテレビをつけていて、作業の合間に見る。
夜には通常の番組を放送しはじめていて、報道を続けているのはNHKだけになる。
帰りの電車で困ることはなく、わたしの帰宅するころはとても空いている。
街に出る人のすくなさと、みんな早く仕事を切り上げているのがわかる。
都市は少しずつ機能を回復する、けれど人々は目にみえない空洞を抱えている。
それを肌に感じる。喪失感、ふいにわずかに揺れる地面。
街がなにかに覆われてくもっている。
うまく本が読めない。いま読んでる江戸時代の小説も、とても読みやすいのに頭に入らない。
どんな本なら読めそうか、それもわからない。


今夜また地面が大きく揺れました。
こんどは静岡で、また福島で。
わたしは夜着だったから、パニックになってなにを用意したらいいかとても慌てた。
奇跡のように本が一冊落ちてきた。
それをはっと受け止め、揺れが収まってからも抱きかかえながらじっとテレビを見て
落ち着いてから本を棚に戻そうとして、やめた。
わたしは明日からこの本を読むことにしました。いや今夜、これから読み始めます。
それはレイ・ブラッドベリの2008年の短編集「猫のパジャマ」
そのころに買って、そのまま読みそびれていた。


奇跡のようにと書いたのは、わたしはテレビを見ながらずっと、ブラッドベリのある物語を思い出してたから。
隕石が落ちて世界が終る夜に、コテージに出てお茶を飲みながらゆっくりお話する夫婦のことを。
確かそんな話だった、違ったかな、ブラッドベリは「終わり」に日常を選んだ二人を描いた。
いろいろ考えたけれど、結局ぼくたちはこうして過ごすんだねってお互いに話す。
10代のころ読んだとき、おんおん泣いたのを思い出す。
今、まるで世界の終わりを迎えるように感じてる。また揺れた、わたしはその恐怖を自覚する。


ふと現実に戻ると、わたしはブラッドベリを抱いていたので、おおっと驚いた。
そして「猫のパジャマ」の表紙をひらいてすぐに目にとびこんだ見出しがこれ。
序文− ピンピンしているし、書いている
とても安心し、そうか、と微笑んでしまうほどじわっと言葉が染み入った。
心を暖める心。


「猫のパジャマ」は、すばらしい人/ものを意味する俗語なのだそうです。