すばらしい予告編

こんな予告編、みたことない。
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の「BIUTIFUL」
新しい予告編「海辺のカフカ篇」をみた。これはすごい。すばらしい。
ああうらやましい、私がつくりたかった!でもこれ以上にはできないかも!?
と思うほど…とても良いのです。
これだけで短編映画として成立している。ぜひ、大音量で観てください。

村上春樹の「海辺のカフカ」の抜粋と、作品のもつ魂とがひとつになった予告編。
なんの関係もない村上春樹の文章が、偶発的に、イニャリトゥのつくった映画と共鳴していた。
そのふたつが出会った。このこと自体がすごくイニャリトゥ的な視点だと思う。
予告編自体が、監督の性質の延長線上にあるひとつの作品として、成立している。
これをつくったディレクターはたいしたものだわ、まいっちゃうな弟子入りしたい位だわ
と思ったら、イニャリトゥ本人の演出だったみたいです。
それにしても潔いです。台詞は一切なく、音楽と、ぜんぜん関係ない小説の文章だけで
映画の中身が伝わるんだもの。
具体的なストーリーはまるでわからないけれど、誰々がどうしたというのなんかどうでもいいじゃない?
映画において、人生において。
表出しているストーリーよりも、その根底に地下水のようにながれている感情…つまり
「誰がどうした」の原動力となる感情の流れが、人に言葉を与え、走らせ、動かしていて
その流れそのもののかたちが、すべてだ。
つまりそれが映画の魂で、映画のよしあし、好き嫌い、面白いつまんない、はそこにあるし
わたしはいつもそれをキャッチしようと、予告編やちらしの写真を、ばーんと感情を全開して観る。
でも、この予告編はどこからどうみても、その映画の魂、「流れ」のあらすじがわかる。
むしろ、それしかわからないという…。
予告編はよかったけど、本編はがっかりだなんていう誤差もよくありますね。
だけど、これは予告編がすばらしいので、きっとそうだとしても私はなにも文句を言わないな。
すてきな予告編をありがとう、と言いたい。


そしてせっかくだから、もうひとつ予告編を。

本編をみた人はきっと、ライブシーンの圧倒的なかっこよさが強烈でわすれてしまうかもしれないけれど
予告編でみせているのは、この映画の魂はスコセッシそのものだってこと。
こんなにたくさんアカデミー賞をとっている監督が…電話一本でミックにあっさりやりこめられる。
舞台装置は直前で変更し、曲目リストは当日になっても決まらない。
その右往左往するコメディ、苛立ちや焦りが見え隠れしながら、けれども
それらの出来事の下、スコセッシの心に深くながれている愛情…音楽と、映画、かれらへの信頼が
スコセッシを大きくつつんで、とても強い力をかれに与える。
ストーリーの「誰がどうした」の表層に現れたのは「スコセッシが笑った」で
(この笑顔をよくぞ撮った、と思う。)
「もう、ナーバスになってもしょうがないでしょ♪」と開き直ってくすくす笑う顔のあたたかさ、
「登場人物の心の成長」ったらない。
そしてショーの始まりの凄まじい音の切り込みが、ハッピーエンドに向かって突っ走る。
手法はイニャリトゥのように斬新ではないけど、おなじように映画の魂の流れがみえる予告編だとおもう。


わたしは会社の自分用PC&編集機のPCに、この予告編のムービーデータを入れていて
うまくいかなくて落ち込んだり、煮詰まったりつかれたり、いやなことがあったり
とにかくかなしい感じになってしまったときに大音量でこれを観ると、とっても元気になる!
「もうやだ…もうきつい…もう……もうナーバスになってもしょうがない♪」
スコセッシがわらってるから、わたしもがんばろうーと思うのだ。
(そしてこのごろは、それでも立ち直りきれない事柄は、わたしはぶん投げて「むいてない」「もうしらない」
とすることにしている。それでふて寝しても、いままでそれを誰にもとがめられたことがないのはきっと
神様が「お前さん、ふて寝してよし」と世界を動かしてくれてるんだろう。)
映像の神様はいる。