恐怖について

わたしが地震以来ようやく保存食をどけて台所に立ち、作った料理は
すき焼きときのこ汁、ほうれんそうのおひたしでした。
茨城県産の春菊とほうれんそう、福島県産のなめこ、エリンギ、まいたけ。
それらは生産地を見てあえて選んだものでした。
こんなことになってしまってもみずみずしく出荷されている野菜を
心強くたくましく、おお阿佐ヶ谷までよく来たね、と思った。とてもおいしかった。


翌日の夕方、ニュースで農作物の放射能汚染を知りました。
それからというもの、汚染対策はどんどん加速する。
土曜に買った食材は、たった二日で「食べられない」判断をされて買えなくなった。
うちの冷蔵庫にはまだ春菊とエリンギとなめこが残っているけれど
わたしが今食べたのでわずかに被曝していても、もう知らない。
たばこを吸い、身内にがんで亡くなった者がいるのだからいつだって
がんになりえることは覚悟してる。それでも怖くなるのだから、恐怖というのは計れない。


けれど水道水が汚染されている、という報道にはあぜんとした。
コンビニや自動販売機で、水だけが本当にすべてなくなっている。
駅の売店で普通に買えてほっとしたけれど、どれだけ皆が不安に駆られているのかがよくわかる。
わたしも怖くなる。
こういうときに恐ろしいのは、それが視覚記憶に直結することだと思う。
わたしは地下深くのどこかから、コールタールのようなぬめった黒いものがひた寄ってくる
そういう、映画かアニメか絵画を見たことがあるんでしょう。見覚えのある怖い連想。
わたしの頭が偏るのをいつも冷ましてくれる同僚に、水を買ったと言うとたいへん呆れた顔をされたので
なんだかとても恥ずかしくなりました。
ただし多少の反抗心をもって、こんなに店頭からインスタント食品がなくなってるのに、と思ったけれど
帰りのコンビニでたくさんカップラーメンが売っているのを見て、また恥ずかしくなった。
愚かしい。それでついカップ麺を買って食べたのもまた愚かしいのだけど(食べたくなったから。)


地震は天災で、原子力は人災、だから許せないって大変怒っている親友に
わたしはそうは思ってないと話した。共感はしてもらえなかったけれど、通じたからここにも書きます。
どちらも天災です。同じひとつの出来事です、地球にとっては。


ヒト種の存在だけが特別だなどと思ってはいけない。それは奢りです。
わたしたちはただの生き物であり、マンモスや鳥やかまきりと同等です。
他の動物と同じように感情があり、生き抜く知恵があり、寿命がある。
優劣でいえばわたしたちは寿命が長いほうだけど、でも猫のように屋根を軽々と飛べない。
鳥みたいにみずからの体で空を飛べない。
ただの生き物のひとつが原因となって、たとえば原子力の事故を起こす。
環境を変化させることにつながる所業を、高度な知能とはいえ万能ではないヒト種が行ってきただけで
いつか氷河期が来て、対応できずに人類が滅び、ほかの生き物が世界をつくりかえるときがきても
地球目線でいえば、爆破して宇宙の塵にならない限りただそこに(宇宙の中の一地点に)浮いてることに変わりない。
ただし人類は積み重なるたくさんの知恵がある。それを希望という。


東京はまだ、思い出したように余震で地面がゆれます。
携帯電話にものすごい音で地震警報が届く。たいていはその警報のときには揺れず、なんの予告もないふとしたときに
ガタガタと揺れはじめる。
揺れたときに焦らないで様子を見る図太さは身についたけれど、わたしはつい「地球崩壊」を連想する。
この連想にも慣れるか、別のものに変えたほうがいい、と思っています。怖いだけで、どうにもならないから。


ブラッドベリを読み終えて、宮部みゆきの「ばんば憑き」を読み始めました。
宮部さんの江戸の物語は本当にすばらしく、恐怖の怪の果てにとても温かみのある余韻にたどり着く。
ばんば憑きはものすごい出来で、宮部江戸にて満点が出た、と思えるほど良いのですが
タイトルどおり、もののけの類の憑きものを題材にした短編集です。
呪いとか無意味な化け物で脅かすのでなく、そのすべての不思議が人の業の延長として、理解できる描かれ方をしている。
今夜余震が起きたら、たぶんわたしは表で巨大な物の怪が暴れまわっていると連想する。
恐怖に打ち勝つための想像力は、生きる知恵のひとつなのだと強く思う。