オールジャパン・サバイバル

わたしの住む阿佐ヶ谷は、堅実で生活しやすい住宅街だけれど
地震の翌日から毎朝、開店前のスーパーに行列ができている。
阿佐ヶ谷も銀座も同じように、コンビニからごっそりカップ麺が消えている。
後輩の一人暮らしの男の子が、かれは普段からコンビニに依存した食生活だから
食べ物にとても困るっていう。
カップ麺もないし、お弁当もないでしょ。あるのはスープだけなの。
私は言う、とりあえずごはんを炊きなよ、あとはどうにでもなるから。


きのう仕事が思いがけず早く終わり、その突如行列が始まったスーパーに寄ったら
お米が品切れで入荷めどが立たない、という張り紙をみて戦慄した。
東北の米どころ一帯があのような状態になり、これから米はどうなるのか
誰も話題にしていないようでいて、主婦たちはみんなわかっていたのだと知りました。
うちにはまだ米の蓄えはあるけれど、慌ててパスタを買った。パスタも残り少なかった。


被災地付近のコンビニは、すでに略奪状態だとNHKで報道していました。
すこし前まで、行列にきちんと並ぶ人々の姿が流れていて
海外メディアでは、日本人の冷静さと生真面目な国民性を評価していたけれど
映像に映らないところでこういったことが、もうとっくに起きていた。
現地ではそれどころではないのだ。
被災者の精神が、生きるか死ぬかのサバイバルに勝ち残ることへと形を変えつつある
専門家がそのように言っていた。
報道もそういった、逼迫した生活状況をどんどん伝えている。


わたしのマンションは電気コンロです。
炊飯器も、湯沸かし器も冷蔵庫も電気がいる。
電気が止まれば、料理は困難になる。そういう家は多いでしょう。
コンビニでは、カセットコンロの燃料は売り切れている。
今ある燃料がなくなったら、ろうそくでどれだけ料理できるかと考える。
煮物は無理だから当然、生食と焼き物になる。牛肉は直接あぶればいけるし、
にんにくとかピーマン、パプリカみたいな薄くて小ぶりな野菜なら、か細い炎でも焼ける。
あるいは、ろうそくをぐるりとコンロの形に並べて、いっせいに灯せば
お湯をわかすことができるだろうか、とか。
庭で焚き木をするのは、一人暮らしで継続性を思うと現実的ではない。
それに、東京ではとても難しい。


熱を火で得ることは、今こんなときに誰もいわないけれどCO2を増やすことです。
電気のある生活をCO2を出さずに成立させるために、日本には原子力発電が必要だった。
だってそうでなければ、火を燃やして電気をつくるしかなくて
そして、それら燃料はもう採取できる量に限りがある。
いまと未来の豊かな暮らしをかなえるための原発
どうして東京電力を、原発の関係者を責められる?
いらだちと怒号の飛び交う記者会見で、東京電力の人たちがちいさく憔悴しているのをみて
かわいそうでしかたなく、またあなたたちメディアはその電気を使いながら
撮影したり取材して発行したり、編集して映像をつくるのではないの、と
同業者として思わずにいられません。
停電の不満や被曝への不安をいち企業へぶつけたくなる暴力は、やがてこの不便が続くほど拡大するでしょう。
でもそれは、わたしには、弱いものいじめにしか見えない。


原子力は恐ろしい。ほんとうに、毎日状況の不安定ななかでわたしは
あのすべてが爆破したら、東京ももうだめだろうと漫然と思いながら、覚悟をできないで怖がり続けている。
けれど、日本には広島と長崎の被爆があり、そのトラウマと激しい抵抗感がありながらも受け入れ、
狭い国土のなかで、それでも幾つも建てる必要のあった。
原発反対デモがいくら席巻しようと、他に選択肢のなかった。
わたしたちはその国に住んで、食べ、かんがえ、楽しみ、働き、生きてきた。
原子力発電がなければとっくに電気は足りていなくて、たった5日前までの暮らしは出来ていなかったことを
その長い歴史を思う。大都市東京、24時間明るい街、便利で先端の暮らし。
わたしが生まれる前にすでに建っていた発電所の惨状をみて、ただもう何もかもがしかたないとしか言えない。


豊かな生活を手放したくないから停電に文句を言ったり、むやみに東京電力原子力に反撥したり
自分さえよければいい、自分には関係ないと思い生活レベルを変えないひと
(信じられないことに、本当に今東京にそういう人はいる!)
石原都知事はかれらに向けて、あの衝撃発言「津波でエゴを洗い流せ」と言ったのならわたしは納得だし
大ブーイングをものともしないいさぎよさをを、尊敬する。


日本の崩壊を東京電力自衛隊の人たちが、決死でくい止めるための知恵と力を注ぎつくしているのを
いまはただ祈りながら見守り、応援するしかない。
そして、これからどうやって生きていくか、エゴでなく手をつなぎ、知恵を共有するサバイバルを
怒りと暴力に使うエネルギーを、この状況下で心豊かに暮らしていくためにかんがえるエネルギーに転換して
そうやって今は、オールジャパンがサバイバルしていくしかないと思うのです。
ラジオでは頻繁に、ジョン・レノンのイマジンが流れています。
−想像してごらん、すべての人々が、今日のために生きていると
いまはただ日々を、自分の思う正しさをもって、誠実に生きていくしか、わたしには思いつきません。

東京の翳り、地震で落ちてきた本

きのうから、わたしの仕事場は自由出勤になりました。
何もなければ来なくていいし、会社の定める定時を守る必要はない。
この事態は、わたしたちの働くルールを変えました。
電力が足りず始まった計画停電で、規律正しく時間を守れない状況になって
二日目のきょうは少しずつゆるやかに、建て直してきたように見える。
けれどそれは人々がこの状況を受け入れて慣れはじめたから。
福島の原発は刻々と危うく、僅かに東京にも放射能が飛散しているとテレビで言っている。
わたしは今日も、すこし時間をずらして仕事へ行き、定時ごろまで働いて帰る。


日曜は編集機に向かうことが出来るかとても不安で、この日記に書いたけども
さあ、とそれら記録された映像をみると、すっと心がまとまって、
自分で驚くほどのスピードで脳がイデアに向かって進んでいって
オペレートする手が追いつかない位だった。
ひとが無心に楽器を弾くような、カンバスに絵を描くようなそういう感覚。
迷いというものがひとつもない状態でただ進んでいき、3時間ほどで「終わり」を決めた。
私は私なのだ、と思った。こわくて、不安でかなしくそれでも、それなのにも関らず。
私のなかの映像の神様が、ちいさくなってるわたしを蹴散らしてぬっと現れたみたいだった。


会社ではずっとテレビをつけていて、作業の合間に見る。
夜には通常の番組を放送しはじめていて、報道を続けているのはNHKだけになる。
帰りの電車で困ることはなく、わたしの帰宅するころはとても空いている。
街に出る人のすくなさと、みんな早く仕事を切り上げているのがわかる。
都市は少しずつ機能を回復する、けれど人々は目にみえない空洞を抱えている。
それを肌に感じる。喪失感、ふいにわずかに揺れる地面。
街がなにかに覆われてくもっている。
うまく本が読めない。いま読んでる江戸時代の小説も、とても読みやすいのに頭に入らない。
どんな本なら読めそうか、それもわからない。


今夜また地面が大きく揺れました。
こんどは静岡で、また福島で。
わたしは夜着だったから、パニックになってなにを用意したらいいかとても慌てた。
奇跡のように本が一冊落ちてきた。
それをはっと受け止め、揺れが収まってからも抱きかかえながらじっとテレビを見て
落ち着いてから本を棚に戻そうとして、やめた。
わたしは明日からこの本を読むことにしました。いや今夜、これから読み始めます。
それはレイ・ブラッドベリの2008年の短編集「猫のパジャマ」
そのころに買って、そのまま読みそびれていた。


奇跡のようにと書いたのは、わたしはテレビを見ながらずっと、ブラッドベリのある物語を思い出してたから。
隕石が落ちて世界が終る夜に、コテージに出てお茶を飲みながらゆっくりお話する夫婦のことを。
確かそんな話だった、違ったかな、ブラッドベリは「終わり」に日常を選んだ二人を描いた。
いろいろ考えたけれど、結局ぼくたちはこうして過ごすんだねってお互いに話す。
10代のころ読んだとき、おんおん泣いたのを思い出す。
今、まるで世界の終わりを迎えるように感じてる。また揺れた、わたしはその恐怖を自覚する。


ふと現実に戻ると、わたしはブラッドベリを抱いていたので、おおっと驚いた。
そして「猫のパジャマ」の表紙をひらいてすぐに目にとびこんだ見出しがこれ。
序文− ピンピンしているし、書いている
とても安心し、そうか、と微笑んでしまうほどじわっと言葉が染み入った。
心を暖める心。


「猫のパジャマ」は、すばらしい人/ものを意味する俗語なのだそうです。

明日に架ける橋を

日本はまだ混乱しています。
まだ余震が起き、明日から電気の制限がはじまるそうです。
首都圏の電車は走りはじめていて、走ったり停まったりしています。
これからわたしは仕事に行きます。杉並を離れるのはこわいです。
昨日書いたような、平和を前提としたものづくりと向き合うことをしに銀座へ行きます。
冷静になれなければ帰ってくるつもりです。
けれどわたしが今つくるものが、のちに日本が落ち着きを取り戻したとき
そのころにちょうど形になって、楽しさや希望を、不安の暗雲を払えたら
そう思うことができたら、
(いつかはそのように思う必要があり、そうでなければこの仕事をやっていけない)
少しでもそう思えたら、その分だけ仕事をしてくるつもりです。


このようなとき、希望をもって、生きるエネルギーをすぐに取り戻すのは難しいです。
わたしは昨日ふいにこの歌が心の中に流れ、涙がでました。
TVを消してこの歌を聴き、またつけました。状況はなにも変わっていません。それでも、
少しずつ、明日に向かって架ける橋を、どうか、少しずつでも治癒を穏やかな心を
混沌とした街の中で、不安定な状況下で生活をしていくために、そして
ほんとうに辛い思いをしている被災者の方々の心の耳に、この歌が流れることを祈って
リンクをします。

地震

日本で大地震が起きました。
友人知人のみんなへ、わたしは無事にいま、杉並の自宅に居ます。
きょうは本当は仕事三昧の予定だったけれど、すべてとりやめました。
ふたつの仕事のうちひとつの企業からは、作業ストップの命令が下りました。
首都圏の電気が危ないです。
原子力発電所や火力発電所が被害を受けることは、どれだけ生活に関わるか
それが、この先どれだけの間続くのかを、どうか考えて備えてください。
電気が使えている間や日中に、まだお店が営業できている間に、どうか停電対策を。
私たちのような仕事は電気がなければ何も出来ないことや
それでも、この事態のなかで今、年度末に仕事のかたをつけなきゃならないのか
企業の製品やハイソなライフスタイルや、それどころではないPRを映像でする必要があるのか
全チャンネルが24時間、CMを一切入れずに報道を続けているのをみながら
わたしはずっと、どうしたら立ち上がれるのか、途方にくれています。
このショック状態から、それら手元の仕事をどうやって、虚しさを抱かず冷静に、
そのうつくしさを見出しながら表現できるか
そうやってわたしの心が再開することができるか、まるで見えないです。


明日が安全な保障はどこにもない。
それでも、明日は様子をみて仕事に行きます、という連絡が飛び交う。
私もそう言った。だけど私は、この気持ちを整えて清い心で編集機に向かえるか、
仕事を再開することは、いまの精神状態ではきっと、神に祈りながら向き合う、
自分のなかの一世一代のたたかいとなるだろう、と思います。
明日が安全な保障などはじめからひとつもなかったということを、すっかり忘れて生きていた。
その愚かさとどうしようもなさに、続く余震と、原発被爆への恐怖に
心がまるで休まりません。
あのゆったりした花巻や、美しい仙台、行ってみたいと思っていた気仙沼、釜石の街が崩れている。
悲しく、どうにもならない。
わたしは先日、イーストウッドの最新作「ヒア・アフター」を観たばかりでした。
映画は、突然の大津波から始まる物語でした。大津波、交通事故、突然ひとは無くなり
本質のむきだしを余儀なくされる。うわべのものは剥げ落ちて、ゼロになったとき
その深い傷と悲しみを経て、こころから安心していられる誰かがこの世にいる尊さを伝える映画でした。
とにかく今わたしが思うのは、ひとの無力さを思いつづけるときりがなく
無力さを受け入れて立ち上がる強さを、無力なりに切り拓き、生きられるだけ生きる知恵と穏やかな心を
取り戻さなければ。それだけです。
出来るだけの手をとりあって、死ぬまで生きていくために。


被爆したときに有効なのは昆布だそうです。昆布を備えてね、それに防寒や節電や、いまTVやラジオで
ずっと流れている情報をしっかり受けて、正しいと思う判断をしよう。
いまはいましかない。明日も、一分後の未来もわからない。いまできることをして、備えられることをしよう。
防災袋をつくるとか、電気が使える間に料理をしておくとか、お風呂に入るとか、
店がやっているうちに買出しをするとか、危険な位置にある家具を動かしておくとか、
そういうことを積み重ねて、すこしずつでも、生きる自信をつけていこう。
どうか、みな無事で。

くる年/劇場版 相棒2

とても忙しく、なかなか更新できませんでしたけども
今年の初映画は、めでたく元旦に「劇場版 相棒2」を見てきました。
元旦ってそういえば1日で、映画の日なんですね。
おかげで縁起良く1000円で鑑賞することができた。
映画館は空いているし、地元の立川シネマシティで、しかもシネマツーで
こちらのハコは、モノレールの駅を降りてすぐ、その景観がとても好きで
私は本館のシネマシティよりもツーのほうが、圧倒的に気に入っています。
清潔ですっとしていて、すいた空気感の目抜き通りは、金沢の都市の雰囲気に似ている。
ああ、また金沢行きたい。


最近、というか今シーズンからの相棒はちょっとすごくて
「正しさとは何か」を初回から突きつけられている感じがしています。
わたしはそれを、陪審員制度のはじまりとつながっているんじゃないかと勝手に思っていて
わたしたち一般市民が罪を裁く立場になったとき、個人個人の「正しさ」と向き合うことを
そしてそれ以前に、その「正しさ」の前提ですら、騒音に惑わされず自身のなかに有るのかと
考えさせるようなドラマになっていると思う。
「劇場版 相棒2」のテーマは「あなたの正義を問う」
真正面からぶつかってきた、と思った。


とにかくすごいのが、役者の壮絶なパワーです。
面白い、とかうまいへたという次元じゃなく「壮絶」なのです。
人と人の感情のぶつかり合い。むき出しの瞬間、息をするのも忘れるほど観客を呑み込んでしまう
そういう物凄い瞬間が、幾つも幾つも波のように訪れる。
それぞれの正義が、ふりかざされることなくコミュニケーションとしてぶつかり合い
それが火花を散らしたり、溶け合って新しい展開を生み出したりする。
果たしていま、このように自分の正義を守りながら他人と向き合わなくても生きていける惰性の世に
鉄拳をくらわすような映画でした。
それはストーリーラインというより、ドキュメントに近い形で描かれるコミュニケーションの記録です。
こんなに硬派な映画は、日本映画ではとても久しぶりなんじゃないかと思う。
こういう映画がばりばりに派手に宣伝され、シネコンで全国ロードショーされるのは
とてもうれしく思います。


小西真奈美、ここまで水谷豊と互角にぶつかり合えるなんて…びっくりしたなあ。
相棒はドラマでもそうだけど、役者さんの活かしかたが毎回素晴らしくて
この人こんなにうまかったっけ??とびっくりさせられることが多いのが素敵。
ちょくちょく、寺脇相棒の再放送をやっていたりするけれど(それも面白いけど)
いまの世間のさめた空気VS特命係の熱い冷戦には、ミッチーの相棒がやっぱり、ぴったりだと思う。
うむ…やるなあ。流れ完璧だなって感心しちゃうわ。


元旦から配布の右京さんポストカード、いただいたので壁に貼ってみたりして
あなたの正義を問う とか書いてあれば格言ぽくて良い感じにキマるのだけど
ポストカードには「Happy New Year」って書いてある。
右京さんからの年賀状と思って、しばらく大事に貼っておこうと思います。
今やっている、とても壮絶な仕事の終るまでは…魔除けしてね右京さん!

ゆく年/人生万歳!恵比寿ガーデンプレイス万歳!

あけましておめでとうございます!
今年の目標は、お能の勉強をすることと、心の透明度を上げること
そして混乱のなかでも、にごらないすべを身につけることです。
今年もよろしくお願いします♪


ゆく年くる年、きょうはゆく年編。
昨年の大晦日は休みをとり、映画を観にいきました。
恵比寿ガーデンシネマは1月いっぱいで休館となるそうで
その最後の映画に、ウッディアレンの新作がかかっています。
恵比寿ガーデンシネマが、ウッディの作品でしめくくることができて本当によかった。
わたしが高校生のころに開館したここは、ちょうど名画座の閉館ラッシュと入れ替わりに
ミニシアターブームの一翼を担った場所でした。
六本木のシネヴィヴァン、渋谷のシネマライズユーロスペース日比谷シャンテ、それにここ。
時代の流れとともに、映画館のラインナップもどんどん変化していったけれど
ひまな学生時代に、この5つの映画館へ行くことはわたしの習慣で、大事な時間でした。
その中で恵比寿ガーデンシネマは、いつもウッディの新作上映場所だったし
暖かく心にしっかり響く、そういう作品ラインナップという印象のハコで
私にとって、5館のなかでも一番ほっとする映画館でした。
映画館を出て、たいがい寒々しくがらんとしたガーデンプレイスをあるきながら
強めのビル風に吹かれて、映画のことをかんがえる。
気合の入っているときは、早めに行って写真美術館を見てから、
でも帰り道はやっぱり、映画のことをかんがえている。
鞄にはたくさんのチラシとパンフレットを抱えて、どこで珈琲を飲もうか考える。
ガーデンシネマがなくなったら、もう恵比寿にはあまり行かなくなるかもしれないな。


というわけで、「人生万歳!」というキャッチーな邦題で公開された
ウッディ、そしてガーデンシネマのファン感謝祭的なロードショーを見てきました。
ウッディ40本目にして最高傑作がでました!本当に本当、正真正銘。
ファンの熱いシビアな目で見て、これはウッディ映画総決算のすごい出来。
ウッディの近年の映画にたいする猛烈スマッシュが、この映画で結論にたどりついた。
感無量です。縁起でもないけどもしウッディが、この映画を最後に監督をやめたとしても
ファンのわたしはうん、よくやった、とうなずいて受け入れられる。
ウッディがずっと探していた答え、ずっと伝えたかった人生についての考えの結論、
ウッディ映画の決定版。やりきった、という感覚がファンとしてディレクターとして
本当に理解できる、とても痛快で、うれしくて笑い泣きしてしまうような映画でした。


原題は「whatever works」→何でもあり これじゃ人は来ませんけども
人生万歳!最高の邦題です。これで、なにか人生に万歳を見出したい人たちが観にきてくれる!
そしてきっと、ファーストカットで虚をつかれて巻き込まれ、
もう国宝級名人芸のコメディ進行と、洗練されまくった演出と、やりたい放題のストーリーに笑って笑って
ばかみたいなハッピーエンドにきっと、気がついたら背中を押されている。
万歳といいきれない日々に我慢しながら、このあいまいでねじれた日本にいる、
悩める行き詰ったみなさん、どんどん映画館に来てください。
そして、男らしさ女らしさに執着して、クネクネしたりマッチョに振舞おうとしたり
恋愛や生活を、条件や常識で選んだりすることが自分自身を不自由にしていないか
無意識に型にはまろうとする右にならえの意志があなたの快適さにつながるのかどうかを
正面きって見てほしい。
自身の快適さを求めて生きていくことは、それは、闘いじゃない。
そんなにはげしく、しんどいものじゃない。ごく単純で、かんたんなことで
それは、よろこびのはずじゃない?
快適じゃないのをがまんするほうが、どれだけしんどく、闘いを強いられているのかって!
ねえ。アッハッハ!とウッディは高笑いして飛んでいく。


だからわたしも、なんだか悩んだりぐったりするのがばかばかしくなった。
だからって正月明ければきつい仕事が待ってるし、状況は変わらない、だけど
何でもありだ。わたしの心は好きにすればいい。
そう思っている。より深く、しっかりと、すっきりと。


舞台はニューヨーク、だけどベートーヴェンの第九や運命ががんがんに流れる。
どう考えてもウッディ本人が演じるはずの主役のさえない老人も、役者にまかせている。
40本記念作、と銘打っているからには、ウッディもそれなりに特別な気持ちかもしれないけど
まああのひとはいつもと変わらず、すとーんと映画を作っただけなのだ。きっと。
外に出るともう日暮れで、やっぱり寒々しくがらんとしたガーデンプレイス
きょうは実家に帰るから、その前に阿佐ヶ谷の上島で2010年ラスト珈琲をキメよう。
実家に帰ったらちょうど第九が見られるように。


ガーデンシネマのファイナル、15日からはなつかしの上映映画集が始まります。
ウッディ作品はさすがに3本あり、「人生万歳!」とはしごして見ると最高なのは
やっぱり「さよなら、さよならハリウッド」!
他にも「スモーク」や「25時」「モーターサイクルダイアリーズ」なんかが再上映されるので
いやもう他にも再上映してほしいやついっぱいあるんだけど、ぜひ観とどけてあげてください。
ウッディ以外で「人生万歳!」とはしごおすすめの食べ合わせは、「スモーク」かな。
あと「トウキョウソナタ」もいいかな…人生万歳を後攻で♪
いやあでも、ウッディファンが全員心配しているのはきっと、
(ああ、ガーデンシネマなくなったらどこで新作やることになるんだろう)
ほんと、いい映画館でした。


明日は、翌日の元旦早々から映画館へ…くる年編のご報告。
立川でも見られるメジャー映画で、わたしが元旦から見たくなるようなものといえば、
お気に入りのあれです。右京さんがあなたの正義を問うやつです。見に行っちゃいました!うふふ。

師走の心

ああ、寒くてとてもすてき!
…と思える師走でよかった。
師走の寒さの感じかたで、自分の状態がよくわかる。
雪が降らずとも、透き通った雪の結晶やうす氷の、凛とした空気がみえればOKだ。
うれしく背筋を伸ばし、ちょっと縮こまって外を歩ければそれで。
心が濁っていると、寒さはただ防ぐものでしかなく、暖かさのありがたみも感じられない。
その身体で。


ブログを更新していなかった約一ヶ月、ほんとうは二ヶ月くらい続けて
やすみなく闘わずにいられなくて、まるで戦士みたいだった。
死なないために食べ、発狂しないように泉鏡花の本を御守にして
短時間でも集中して眠れるすべを身につけ、怒ったり泣きそうになったら席を立って
ひとりになってお祈りをした。
今のすべてを受け入れなくては。そうして、闘わなければこの日々が終らない。
やはりそれは日常のような顔をした戦場で、油断したら死んでしまいそうな気がした。


だけど、人はあんがいタフなのだ、と自覚できたらしめたもので
ダメージを回復できる自信、変わりようのない精神、それらにやじろべえのバランスで傾いたら
あとは冷静さ、誠実さをもって着実に進んでいける。
仏のこころで。


ようやっと、日々の落ち着きを取り戻してきました。
まだすべて終ってはいないけれど、人間らしい生活を送れる幸福。
帰還した夜、とてもビリージョエルの古いベスト盤が聞きたくなって、なぜかずっと聞いていて
それからサイモン&ガーファンクルをまた聞いた。
なんでそれらを聞きたくなったのか、さっぱりわからなかったけれど
それは子供のころ、ほんの幼少時に繰り返しカーステレオで聴かされていた音楽で
こどもの頃に戻りたかったのか、なにも考えずほっとしたかったんだろうなあと今日思った。
福生の風景や実家の窓からさす光や、グレーの絨毯やコロカセ(小さなラジカセ)
ねずみ色のカセットテープに、母さんの文字で書かれた黒マジックの英語、
想像のなかのニューヨークの朝、スコセッシの古い映画でみた、フィルムの街の色あい。
それらが、どこでもないどこかわたしのなつかしく戻る故郷なんだな、と思った。
なにげなく切り取られ、愛着をもって大事にしまわれていた断片のかずかずに
ビリージョエルもサイモン&ガーファンクルも、どこかで鳴っていたんだってことが
べつに改めて買うでもなく当然のようにうちにある「CD」のかれらをみてしみじみわかる。
無意識の買い物、万歳!


水…水をください…という感じで読んでいた泉鏡花のエンドレス読書も
気持ちの風向きが変わって、ようようひと段落。
やっぱりいとおしく、ふと見たくなるのでそばに置いているけれど。
鏡花につづいてこのごろは、岡本綺堂の「半七捕物帳」二巻を読んでいるところです。
半七はほんとうに、物語の伝え方がすばらしくうまいなあ…と
夢中になって読んでいます。
読書の快楽って、こういう没頭感よね…江戸の濃い闇と町にどんどん入っていく。
それにもうひとつ、ガルシア=マルケスの「ママ・グランデの葬儀」も読んでいて
江戸の怪談めいた事件とか、ガボマジックリアリズムとか、鏡花の天上天下の世界とか
結局のところ、そういう魔法が逃避先になったり、或いは心の快楽になっているんだって
しみじみ思った。
そして、それらの示すきわめて美しい真心をかならずいつか
わたしはわたしのやりかたで、表現すると心を新たにした。
我ながら…元気いっぱい♪
師走もたのしく走りましょう!