日常のグロテスク、そして「サウダーヂ」

また…仲間はずれとシカトが始まる。この人いったいいつまで繰り返すんだろう。
いつまで、私を憎む気なんだろう?なぜ執拗に憎まれているんだろう?
わたしが会社を辞めたら、別のターゲットを見つけて攻撃するんだろうか。そういう人がいる。
喫煙所で居合わす知らない会社の人、二人の男性はジトッとした目で私をみる。
そのうちの一人は以前に声をかけられ、しつこく誘われてちょっと迷惑ですと明確に(失礼なく)
お断りしたけれどどんどん執着とじめりが増している。
もう一人の男性は、暗い目でじいっと見つづける、怖いから知らん振りしてる、いつも怒ったかのように激高して出て行く。
じつは外にもいる。会社の周辺でよくすれ違う男性で、あまりに毎度ジトッと凝視し続けるから顔を覚えてしまった。
執拗に見られる恐怖で顔を伏せるくせがついた。その人は空洞の目でにやにや笑っている。
そして社内にじめっとした目が増えた。過去にこの人も「あの目」だとわかって以来、ひどく警戒してしまう。
こわがりすぎだと思う。でもみな共通しているのは、私を見る目つきだ。どうしてあんな目でわたしをみる。
卑劣なファシストみたいな、ひとを服従させようとしているような、そういう歪んだ(空虚でなにもない)目。
それは、わたしが怖がっているからだよと以前親友に言われたことがある。その反応に喜んでるのだと。より怖い。
どこにいっても、前の会社にも、そういう人がいて困ったことがある。でもたった一人、いまほど多くない。
接する機会があれば、かれらの執着をなくせないかと努力したけれど、それはうまくいっても一過性の瞬間でしかなく
ああ、なるほどかれらの現実のすべてがはりぼての、虚構のお芝居なんだと知ったとき、深い恐怖を感じた。
鳥肌の立つほどの恐怖。わたしの理解できないもの。空虚さ。しかし、この世界にたしかにいる隣人。
それ以来、わたしはかれらをいっさい信頼できないでいる。
逃げ回る、はたから見たらわたしのほうがきっと、狂っていると思われる。
じめじめ、ベタベタした、なにか執拗な暗い目が確実に増えているのだ。多数決じゃ押しつぶされる、だとしても。
闘うしかないのだ。
わたしの中の暴力…浮き上がろうとする恐怖と怒りと嫌悪を、わたしの中の武器…笑いやよろこびややさしさ軽さで
片っ端から、ぶち壊していくしかない。
そして、わたしがもっと、暴力を永遠に追放することができれば
きっと、きっときっと、かれらのじめってべたついたアメーバのようなものが、からっと乾く魔法をかけられるかもしれない。
いまのこのアメーバの総攻撃は、わたしのなかの暴力への贖罪だと、そのように考えると、しかたなく思う。
罪をあがなうのは教会じゃない、ストリートだ、とスコセッシがミーンストリートで言い放ったように
日常のなかで贖罪の終わりと魔法のはじまりをめざして闘うしかないのだ。
適当にうわべだけでも従うふりもできない、わたしのような者は。


けれど、本当はみんなそうじゃなかったの?


長々と書いたのはわたしの見た身近なグロテスク。ほうっておくと勢力を増してファシズムになるかもしれず
迫害される側だけでなくする側も虚しさにやりきれぬ、とても生き辛い社会になりえる片鱗のサンプルだ。
さあ、目を覚ませ、そしてがんじがらめの心身を開放せよ。自由になれ、自由とはなにか。
自分の思う正しさをゆがめないこと、だけだ。
それをめぐって、からっと風の吹くようないさぎよさで、迷いなくグロテスクな社会を突っ走る
「サウダーヂ」はそういう映画だった。
わたしの友人たちがつくった映画で、制作中のときから様子をきいていたけれども、このあいだ初めて見た。
とてもしっかりと、確固たる目をもって3時間弱、突っ走っているので、痛快で、すごくうれしかった。
映画にはヒップホップがでてくる。Disる映画はただしくDisらなきゃいけない。ずれると悪意ある暴力になってしまうから。
そして「サウダーヂ」はとても正しくできていた。Disることは訴える、声を上げる、たたかうことだと伝わってくる強さ。
どうしようもない出来事、べたつくアメーバがたくさんでてくる、善悪の価値基準もなく失われ揺らぎ、
世界の不確かさがはっきりわかる。誰がなにが正しいって明示はしないけれど、ラストシーンは
「これが自由だ」と、ばーん!と見せられた感じがして、わぁやったー!と思って泣きそうになった。
ほんとうに、見たらとても元気になった。
映画館は満員御礼、大盛況で、これだけこの映画をよろこぶ人々が多くいるのなら
虚栄に満ちた銀座くんだりでアメーバモンスターに囲まれたところで、大丈夫だれか助けてくれるんじゃないかと
つかモンスターがこの映画をみれば、響けば、むなしさから抜け出せるかもしれない希望をもって
きょうもわたしは「サウダーヂ」Tシャツを着る。


「サウダーヂ」公式サイト
http://www.saudade-movie.com/

すばらしい予告編

こんな予告編、みたことない。
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の「BIUTIFUL」
新しい予告編「海辺のカフカ篇」をみた。これはすごい。すばらしい。
ああうらやましい、私がつくりたかった!でもこれ以上にはできないかも!?
と思うほど…とても良いのです。
これだけで短編映画として成立している。ぜひ、大音量で観てください。

村上春樹の「海辺のカフカ」の抜粋と、作品のもつ魂とがひとつになった予告編。
なんの関係もない村上春樹の文章が、偶発的に、イニャリトゥのつくった映画と共鳴していた。
そのふたつが出会った。このこと自体がすごくイニャリトゥ的な視点だと思う。
予告編自体が、監督の性質の延長線上にあるひとつの作品として、成立している。
これをつくったディレクターはたいしたものだわ、まいっちゃうな弟子入りしたい位だわ
と思ったら、イニャリトゥ本人の演出だったみたいです。
それにしても潔いです。台詞は一切なく、音楽と、ぜんぜん関係ない小説の文章だけで
映画の中身が伝わるんだもの。
具体的なストーリーはまるでわからないけれど、誰々がどうしたというのなんかどうでもいいじゃない?
映画において、人生において。
表出しているストーリーよりも、その根底に地下水のようにながれている感情…つまり
「誰がどうした」の原動力となる感情の流れが、人に言葉を与え、走らせ、動かしていて
その流れそのもののかたちが、すべてだ。
つまりそれが映画の魂で、映画のよしあし、好き嫌い、面白いつまんない、はそこにあるし
わたしはいつもそれをキャッチしようと、予告編やちらしの写真を、ばーんと感情を全開して観る。
でも、この予告編はどこからどうみても、その映画の魂、「流れ」のあらすじがわかる。
むしろ、それしかわからないという…。
予告編はよかったけど、本編はがっかりだなんていう誤差もよくありますね。
だけど、これは予告編がすばらしいので、きっとそうだとしても私はなにも文句を言わないな。
すてきな予告編をありがとう、と言いたい。


そしてせっかくだから、もうひとつ予告編を。

本編をみた人はきっと、ライブシーンの圧倒的なかっこよさが強烈でわすれてしまうかもしれないけれど
予告編でみせているのは、この映画の魂はスコセッシそのものだってこと。
こんなにたくさんアカデミー賞をとっている監督が…電話一本でミックにあっさりやりこめられる。
舞台装置は直前で変更し、曲目リストは当日になっても決まらない。
その右往左往するコメディ、苛立ちや焦りが見え隠れしながら、けれども
それらの出来事の下、スコセッシの心に深くながれている愛情…音楽と、映画、かれらへの信頼が
スコセッシを大きくつつんで、とても強い力をかれに与える。
ストーリーの「誰がどうした」の表層に現れたのは「スコセッシが笑った」で
(この笑顔をよくぞ撮った、と思う。)
「もう、ナーバスになってもしょうがないでしょ♪」と開き直ってくすくす笑う顔のあたたかさ、
「登場人物の心の成長」ったらない。
そしてショーの始まりの凄まじい音の切り込みが、ハッピーエンドに向かって突っ走る。
手法はイニャリトゥのように斬新ではないけど、おなじように映画の魂の流れがみえる予告編だとおもう。


わたしは会社の自分用PC&編集機のPCに、この予告編のムービーデータを入れていて
うまくいかなくて落ち込んだり、煮詰まったりつかれたり、いやなことがあったり
とにかくかなしい感じになってしまったときに大音量でこれを観ると、とっても元気になる!
「もうやだ…もうきつい…もう……もうナーバスになってもしょうがない♪」
スコセッシがわらってるから、わたしもがんばろうーと思うのだ。
(そしてこのごろは、それでも立ち直りきれない事柄は、わたしはぶん投げて「むいてない」「もうしらない」
とすることにしている。それでふて寝しても、いままでそれを誰にもとがめられたことがないのはきっと
神様が「お前さん、ふて寝してよし」と世界を動かしてくれてるんだろう。)
映像の神様はいる。

子猫入る

うちの庭に子猫の季節がやってきた。
いつも梅雨どき近くなると、どこからか子猫を連れてくる母猫は茶トラで
庭には茶トラの猫がふえてゆく。みなとても可愛い。
軒下にえさを出していると、猫たちは庭でのびて好きに過ごしている。
でも部屋の中には入ってこない。
たまに(雨の日なんかは)入ってくればいいのに…と切に思うのだけど
野良の警戒心か、習慣がなくぴんとこないのか、ぜんぜん入ってこない。
でも、ちょっとつかれた、とか頭を休ませたい夜に、庭にでると猫がきて
ころがって甘えたりするのをながめることができる。
ちょっと遊んだり。それだけで充分と思う。


ところが。
昨晩えさをあげていたら、子猫の一匹が勢いあまってぴょん!と部屋に入ってきた。
子猫はすばしこいし、すぐにてんぱるから、ものすごいはやさで部屋じゅうをはねる。
わたしはびっくりして、お外出なさい、とドアをしばらく開けて待ってたのにかまわず
てんぱったあげくにつかれちゃった様子で、部屋の隅でハコ座りして、うとうとしはじめた。
どうしよう…この子、入っちゃった。
明日わたし仕事なのに、朝も出て行かなかったらどうしよう、家に置いていくなんて…
いざ入ってくると、家には受け入れ態勢がないことに、とまどいを隠せない。
それに、部屋のなかに猫がいるその気配の大きさに、どきどきする。


実家には一番多いときには5匹の猫がいた。
猫と同居する生活には慣れきっているはずなのに、初めての猫飼う人みたいなおろおろ感。
とりあえず、わたしも眠いからほっといて寝よう、外に出たければ起こすでしょう、と
ベッドに入ったはいいけど気になって眠れない。
子猫も同じ気持ちだったようで、もぞもぞ、起きて探検したりする。
気になるからわたしもがばっと起きると、子猫てんぱってはねる。
これを一時間ほどしていると、表で母猫が鳴きはじめる。
子猫、いよいよ外に出たいかな…と思ってみると、居眠りしてる(笑)
もう、眠れないから起きて、子猫に手をだしてみると、案外すなおに触らせてくれた。
あれ、逃げない?
子猫も眠くてなんだかわからなくなってきたのか、この環境と人に慣れてきたのか?
ゆっくりなでなでして、ついでに、とひょいと身体をつかんだら、かるがるともてた。
ついくせで抱っこしたら、あっさりひざの上に収まり、眠そうにしている。
小ささを堪能して、それからひょいとドアを開けて、お外に出る?としたら
ピョンピョーンと出ていった。
ああ、あせった。
これでゆっくり眠れる…とパタンとドアを閉めると、気配のなさを急にさびしく感じて
忙しい朝でも、眠くてたまらない夜でもなく、ゆっくりできるときに
また入ってきたらいいなあと思った。


子猫入った写真(てんぱって部屋の隅にかくれている様子)

買い物ドラマ・カワイイ喪の商品券の使い道

む、どうしよう。
この一週間ほど、わたしの頭を悩ませていたのが「全国共通百貨店商品券」。
先日亡くなった友人I君の親御さんから、ふと送られてきた御供養の品。
こんなに、いいのに…と恐縮しながら、この商品券というかたちで送られてきたものを
早くなにか形に換えるべきだわとかんがえた。
「御供養」と書かれた帯は、日常風景のなかで少しせつなく目立つ。
早く風景になじませたいと思った。


どう使うべきか、まず考えたのは本を買うこと。I君は熱狂的な本好きだったから。
けれど、その買った本の中身とI君とが結びつくのも、結びつかないのも違和感がある。
本がいまいち気に入らなかったりしたら、I君が「おもしろくなかったかなあ」としょんぼりするかも。
むむ、やめとこう。
つぎに考えたのは、毎日デパ地下でお昼ごはんを買い、屋上で食べる10日間をすごすこと。
手元になにも残らないなあ…でもすてきかも。
けれど、わたしの行きつけの松坂屋屋上がすっかりビアガーデンに様変わりしていてがっかり。。
しかも雨降り続きですっかり却下した。


どうしよう…いろいろと調べてみた。百貨店にはなにが売っているのか知るいい機会だった。
でもたとえばこの商品券を、化粧品などの消耗品や、流行の洋服に換えることはまったく考えられない。
化粧品も、服も、特別な一品ていう考えがわかない。一張羅とかそういう概念がないんだと自覚する。
生活に馴染むにしても、埋もれてしまいそうなのはどうかと思う。
気持ちよい使いかた、なにかないかな…


そんな日々のなか、きのうひさしぶりにロケに出た。
化粧品メーカーの仕事で、クライアントや代理店、タレント事務所の人たちが来て
スタッフ含めて総勢25名の大所帯での撮影だった。そのうちなんと20名が女性!わたしも含めて。
ちょっと休憩に入ると、とたんにきゃっきゃする現場で、まるで女子校のような雰囲気だった。
わたしはみんなを引率しなきゃいけない立場だから、いっしょにきゃっきゃするわけにいかないけど
みんな明るく楽しそうにニコニコしているので、わたしも演出しながらニコニコしてしまう。
あっちこっちで無邪気に、カワイイ!と声があがるのがおもしろくて笑っちゃう。
数少ない男性である技術スタッフは「あ、またカワイイ大会が始まってるんで…」と『カワイイ待ち』をして
納まるとささっと走って照明を直しにいったりする。そんな肩身の狭い男性陣の姿ももカワイイ(笑)


そういえば、カワイイってあんまり使ってない言葉かも、とふと思う。
猫や動物の動画を見てカワイイって言うけど、だいたいがすてきとかすごくいいとか言う。
カワイイって口にするとき、わたしはいつも発音がとろっとして、キーが高くなる。
「カワイイ」は海外でもスシやモッタイナイみたいに、そのまま変換されずに取り上げられている言葉だ。
撮影現場の女性たちの圧倒的なカワイイパワーはつい笑ってしまうし、メークアップとかいろんな手段で
カワイイを目指してすっごい工夫をしたり、技をみがいてるのは、みていてとても健康的だなあと思う。
美醜の欠点を隠すとか、男に媚びるためだけにメークをしたり服を選ぶ人は、ちょっと卑屈にみえる。
そんなことを男性スタッフが言っていて、なんだか透けてみえてしまうものなんだな、と思う。
メークやファッションは自分を素材にしたアートなんだから、楽しめばいいのにね。男女とわず。
とにかくまあカワイイ現場は、笑った。カワイイは笑いをともなう。わたしもカワイイを忘れずにね!と
自分で自分に言って、あ、そうだ!と思いついた。


んできょう、仕事帰り、閉店15分前に駆け込んだプランタン銀座。
喪の商品券を、店内を10分みたなかで一番カワイイと思ったもの、に換えようと決めたのだ。
I君はカワイイの概念とはかなり遠いところにいる男性だけど、だからこそ、そうしようと思った。
百貨店のなかでプランタンを選んだのも、カワイイ百貨店だからだ。
そしてとてもすてきな…カワイイかばんを選び、無事に喪の商品券を換えた。
スタンダードな形だけど質感がとてもきれい。控えめでヴィンテージ風のベージュピンク色で…カワイイ!
わたしのカワイイをみつけた感じがした。
真面目で照れ屋のI君が、カワイイ〜!カワイイ〜!と無邪気にきゃっきゃする女性たちに囲まれて
真っ赤になって照れ笑いする図が、プランタンを出たときにうれしく思い描けたからそれでOKだ。
喪の商品券ミッション、成功!


家に帰って冷静にみればみるほど、ああすてきなかばんだわ、今までの私にない感じ、と
カワイイ・ミッションで夢中だったわたしは改めて(カワイイ)とうきうきしているのでした。
だいじに使おう。

京都から円空へ着地する

ほんとうなら今頃、ドイツにいたかもしれないんだな。
それは地震の起きる前に計画していたことで、地震が起きてから
日本を離れるのが怖くて、やめました。
そんなことではだめでどうしようもないのはわかっているのだけど。
もうひとつ、抜けきれていなかった出来事があって、それも尾をひいた。
東北で大地震が起きて、そのすこし後に突然、京都の友人が亡くなった。
ずっと日記を書けなく、このことは書かずにいようかとも思ったのだけど
今日ちょっとしたうつくしい出来事があったので、ここに書きます。


ゴールデンウィークは暦通りの休日を得られたので、のんびり静養して
今日は世田谷美術館へ、白洲正子展を見にいきました。
じつは杉並では、来週、再来週とふたつの神社で薪能が行われるのです。
これは是非とも見に行きたい、そうだお能がみたい、と熱烈に思って
しばらく触れていなかったお能の勉強の一環として、白洲正子展で
展示される能面を見に行くことにしました。
お能にしても美術にしても、日本古来の文化をある深みへ降りて知りたいと思うとき
そこには白洲正子さんがいつもいるのだった。
おお、また正子さん、みたいな感じでわたしは数冊読んでいて、正子さんの文章は好きです。
奥行きがあって、どんどん思考が飛んでいくからたのしい。
とくにお能については、正子さんのはとてもわかりやすい。


正子さんは行動力がバツグンだから、どんどん旅にでる。
その旅で出会った、お寺にひそかに居る仏像やご神木の美を見出しては、がんがん書く。
その美意識と勘、霊感といってもいいかも、感覚の強さには感動する。
この展覧会では、正子さんの美の放浪記をたどる展示をしている。
近江、奈良、京都、熊野、行くべき場所に導かれているように。


三週間ほど前に、日帰りで京都へいった。友人のお葬式に出るために。
京都は高校のときに修学旅行で行ったきりで、風景よりも親友たちの顔しか覚えてないほど
忘れちゃっていた。どこを巡ったのかも、なんだか忘れてしまった。
バスをたくさん、みんなで乗りついで、そうだ龍安寺の庭園だけは覚えてる。強烈だったから。
母さんにやきものを買って帰り、それが実家のどこにおいてあるかも覚えてる。
年を経て、日本のうつくしい文化財や歴史、ことにお能にひかれるようになってから
京都と奈良はいつかきちんと訪れたいと思ってそのままだった。
きゅうにこんな用事で京都に行くことになって、わたしは(今となってはおどろくほど)
そのひさしぶりの京都の一日、ぼやっとして鈍ったまま過ごした。


その日の夜がお通夜で、すこし早く着くように出掛けた。
いざ京都へ着いてみると、とても感覚が鈍っているのがわかった。
友人の他界が視界にフォグフィルターをかけているみたいに、五感と六感がとらわれてしまう。
友人は自死を選んだ。
なぜ、とは思わない。そう至ったことに、きっと彼なりの必然があったんだと思うしかない。
だけど、くるしかったら、ものすごくくるしんでいたら、いまでもそうだったらと思うと
すごく悲しい気持ちになって、まったく京都の街がよく見えない。
前夜に母さんに電話で話した。母さんは、自分も、彼のことも、誰も責めちゃだめだと言った。
後悔してもだめだよ、それは飛ぼうとするひとの魂に重力を与えることになるから。
もう行っちゃったんだから、ね、安らかにね、そう言って見送りなさい。
この世のわたしたちが未練を語るのは、あの世に行くひとを、苦しめるのだから。
それだけは絶対にごめんだ、とわたしは思う。思いながら、やすらかに、やすらかに、と
へたな役者みたいに練習をする。かれに向き合ったとき、ちゃんと言えるように。
それはつまり、そのときのわたしにとっては「せりふ」だった。うそでもほんとでもなく、
用意した「せりふ」でしかなくて、そのことにもとても混乱した。どうしたらやすらかにって
ちゃんと、わたしの言葉で言えるのか。それが、通夜までの数時間でできるのか。
京都に降り立って、できそうにないと直感した。
けれども京都の街をさまよってなんとか調整したい、と思った。
わたしの勘のにぶりようはここに現れた。


京都にたくさんおわす仏さまをみたら、すっと心がまとまるかもしれない。
そう思って、三十三間堂に行った。それこそ、すがるように。
ものすごい数の仏さまに出会った。ああ、ちょっと数が多すぎる。それでもって、すごい精巧だ。
強烈な美だと思う、でも、数が多すぎておろおろしてしまう。すきがないのだ。
とても豪奢で、あっけにとられる。正直にいえば、あぜんとした感じ。
心はまとまるどころか、逆にてんぱってしまった。おろおろして、出たとたんどっと疲れた。
ああそうだ、仏さまたちに、友人の魂をやすらかにと祈るのを忘れてた…。
そんなだから鈍ってるのはっきり自覚してるのに、さらに清水寺へ行った。
ぼんやーりと曇った遠景を見下ろした。高い場所だなあ、魂ってこういうところを中継点にして
お空に飛んでいくのかしら、と思ったくらいだった。ぼけぼけしていて、あまり記憶にない。
あっというまにお通夜の時間になった。
わたしは結局、「せりふ」を言うことしかできなかった。
きちんと友人に、わたしなりにお別れをできたのは、つい先日のことだった。


さて、ここで世田谷美術館に着地する。
お別れを受け入れた後のわたしは、こうして白洲正子さんの文章と展示物を交互にみながら
(そう、まるで本のさしこみ写真の実物が目の前にある、という構成だからとても面白い。)
那智の滝にぜひ行ってみたい!とか、天河神社世阿弥の能面が3つもある!超すごい!とたのしんでいて
不意うちで、ぽーんと、あの日京都でわたしが本当に必要だったもの、に出会った。
ああ、これだ。あのとき(決して京都で出会うことはないのだけど)これを見ていたら
きっと「せりふ」でなく、言えたかもしれない。ああ、これだ、これだ!わたしが求めていたもの。
やすらかに、を形にしたもの。まだ飛びたてほやほやで、迷っていたかもしれないかれの魂に
しっかり、ほほえんでいた者。


世田谷で、わたしの目の前で、円空さんの三十三観音像がほほえんでいました。
うわあ、なんてこと…。心の底からうれしかった。それしか言い表せない。
その観音像たちを前に、心のなかで手をあわせて「やすらかに」と言うことは、もう必要のない。
観音像たちは『やすらかですよ。』ニコ・ニコっとわたしに語りかけてきた。
このほほえみのなかにかれがいるのかもしれないし、違うかもしれない。けれど
わたしは『そっか。よかった。』とこっそりニコっと。
こっそりしたつもりがウインドウに映ったわたしの顔は超にやけていて、ふと顔をあげたら
すぐそばにいたおばあさんも、観音像たちを見てにまにまと笑い顔になっていた。
円空さんは、なにを彫ったんだろう。とゆかいに思った。

恐怖について

わたしが地震以来ようやく保存食をどけて台所に立ち、作った料理は
すき焼きときのこ汁、ほうれんそうのおひたしでした。
茨城県産の春菊とほうれんそう、福島県産のなめこ、エリンギ、まいたけ。
それらは生産地を見てあえて選んだものでした。
こんなことになってしまってもみずみずしく出荷されている野菜を
心強くたくましく、おお阿佐ヶ谷までよく来たね、と思った。とてもおいしかった。


翌日の夕方、ニュースで農作物の放射能汚染を知りました。
それからというもの、汚染対策はどんどん加速する。
土曜に買った食材は、たった二日で「食べられない」判断をされて買えなくなった。
うちの冷蔵庫にはまだ春菊とエリンギとなめこが残っているけれど
わたしが今食べたのでわずかに被曝していても、もう知らない。
たばこを吸い、身内にがんで亡くなった者がいるのだからいつだって
がんになりえることは覚悟してる。それでも怖くなるのだから、恐怖というのは計れない。


けれど水道水が汚染されている、という報道にはあぜんとした。
コンビニや自動販売機で、水だけが本当にすべてなくなっている。
駅の売店で普通に買えてほっとしたけれど、どれだけ皆が不安に駆られているのかがよくわかる。
わたしも怖くなる。
こういうときに恐ろしいのは、それが視覚記憶に直結することだと思う。
わたしは地下深くのどこかから、コールタールのようなぬめった黒いものがひた寄ってくる
そういう、映画かアニメか絵画を見たことがあるんでしょう。見覚えのある怖い連想。
わたしの頭が偏るのをいつも冷ましてくれる同僚に、水を買ったと言うとたいへん呆れた顔をされたので
なんだかとても恥ずかしくなりました。
ただし多少の反抗心をもって、こんなに店頭からインスタント食品がなくなってるのに、と思ったけれど
帰りのコンビニでたくさんカップラーメンが売っているのを見て、また恥ずかしくなった。
愚かしい。それでついカップ麺を買って食べたのもまた愚かしいのだけど(食べたくなったから。)


地震は天災で、原子力は人災、だから許せないって大変怒っている親友に
わたしはそうは思ってないと話した。共感はしてもらえなかったけれど、通じたからここにも書きます。
どちらも天災です。同じひとつの出来事です、地球にとっては。


ヒト種の存在だけが特別だなどと思ってはいけない。それは奢りです。
わたしたちはただの生き物であり、マンモスや鳥やかまきりと同等です。
他の動物と同じように感情があり、生き抜く知恵があり、寿命がある。
優劣でいえばわたしたちは寿命が長いほうだけど、でも猫のように屋根を軽々と飛べない。
鳥みたいにみずからの体で空を飛べない。
ただの生き物のひとつが原因となって、たとえば原子力の事故を起こす。
環境を変化させることにつながる所業を、高度な知能とはいえ万能ではないヒト種が行ってきただけで
いつか氷河期が来て、対応できずに人類が滅び、ほかの生き物が世界をつくりかえるときがきても
地球目線でいえば、爆破して宇宙の塵にならない限りただそこに(宇宙の中の一地点に)浮いてることに変わりない。
ただし人類は積み重なるたくさんの知恵がある。それを希望という。


東京はまだ、思い出したように余震で地面がゆれます。
携帯電話にものすごい音で地震警報が届く。たいていはその警報のときには揺れず、なんの予告もないふとしたときに
ガタガタと揺れはじめる。
揺れたときに焦らないで様子を見る図太さは身についたけれど、わたしはつい「地球崩壊」を連想する。
この連想にも慣れるか、別のものに変えたほうがいい、と思っています。怖いだけで、どうにもならないから。


ブラッドベリを読み終えて、宮部みゆきの「ばんば憑き」を読み始めました。
宮部さんの江戸の物語は本当にすばらしく、恐怖の怪の果てにとても温かみのある余韻にたどり着く。
ばんば憑きはものすごい出来で、宮部江戸にて満点が出た、と思えるほど良いのですが
タイトルどおり、もののけの類の憑きものを題材にした短編集です。
呪いとか無意味な化け物で脅かすのでなく、そのすべての不思議が人の業の延長として、理解できる描かれ方をしている。
今夜余震が起きたら、たぶんわたしは表で巨大な物の怪が暴れまわっていると連想する。
恐怖に打ち勝つための想像力は、生きる知恵のひとつなのだと強く思う。

コロニー/オールジャパン・生活の工夫

わたしはゲームに疎いけれど、唯一とても熱心にやっている大好きな携帯ゲームのサイトがあります。
コロプラ」です。
コロプラは、携帯のGPS位置登録を使って位置をとりながら、自分のコロニーを育てるゲーム。
なにが楽しいって、その土地ごとのバーチャルな「お土産」をGETできることで
ちなみに阿佐ヶ谷あたりは「荻窪ラーメン」がGETできる。
お土産には画像とともに、名産のいわれや歴史がわかる説明書きがあって、ちょっとうれしい気分になるのです。
全国各地、地域密着の温かみや、地域独特の文化への小さな驚きや発見が楽しめるのは、旅の楽しみのようです。
コロニーを育てるために見知らぬ人たちと助け合い、資源を補給したりお土産を交換しあう。
攻撃したり破壊したりしない、やさしいのんびりしたゲームなのです。
ハンドルネームはなく、コロニーの番号だけ。その匿名性が旅の一期一会にも似ていて
すれ違うコロニー同士の肩の力を抜くのかもしれない。
このコロプラで今、とても単純であたたかいコミュニケーションが飛び交っています。
現在地から他の土地へワープできる機能があり、それを利用して、全国のユーザーが被災地にワープして
ゲーム上で資源を補給したり、メッセージを送っている。
昨晩わたしも福島のいわき市にワープして、メッセージをつけてお土産を置いてきました。
現地のひとたちは携帯ゲームをする余裕などないだろうけど…と思いつつ、はたして今朝みてみると
ありがとうメッセージが幾つも届いていて、とても嬉しかった。
これから茨城に避難しますという人や、いわきいい街、復興したら遊びにきて下さい、とか
私はひまわり(←山梨でとれるお土産)を置いて回ったのだけど、
ひまわりのように上を見て逞しく生きていかなきゃね、という返事もあった。ああ、伝わったと思った。
見知らぬ人たちに、そもそもこの世は見知らぬ人たちの集まりなのだ。
届いたメッセージボトル、庭に落ちてきた手紙つきの風船。今でも飛んでいるのかな、わたしは拾ったことがある。
すごい宝物を見つけたように嬉しく、知らない街の誰かに手紙を送り、返事をもらって大事にしていた。


やっと、立ち上がる元気が湧いてきた。
まずやったこと。TVを消した。消すのは昨日まではとても勇気のいることだった。報道を見ていないと怖かった。
それから窓を開けて、掃除をした。徹底的にぴかぴかにした。
そして食のたのしみのために、八百屋へ行った。食べたいものが多くて夢中に買い物した。
(慌てて買った保存食は全部たべてしまった。結局私は保存できないたちなのだとわかった。)
それから親友とゆっくり話して、いろいろに話すなかで節電アイデアをきいておおっと思い、やってみた。
湯たんぽこたつ↓

小さい机にカバーをかけて、中に湯たんぽを置いています。持続時間はだいたい4〜5時間。

わたしはこの冬から湯たんぽを導入して、そのおどろきの暖かさに毎日手放せないのだけど
さすがに机下だと範囲がひろくなるから、持続時間も短めで弱め。だけど電気こたつの「弱」位にはなる。
これは即席でベッドカバーの厚手の布を使ってるから、布団をかければもっともっと暖かいはず!
なによりも、エアコンでカバーしきれない足の冷えをじわっとしてくれるから、心強い。
なんとなく置いていたサブ机が、このようにこたつに変身するのはとてもおもしろくて
とたんにくつろいでしまう。ごちゃごちゃとずさんに物をのせていた机が、こたつになると
こたつ的な…わたしだと本と飲み物だけ、みたいな置き方になる。
こたつ、久しぶり…安心して、眠ってしまいました。


湯たんぽこたつ 起きたらお湯が冷めてて寒かった、まだ改善の余地あり。
わたしたちは今、自分の生活をめぐる変化を自覚し受け入れる必要があります。
個人個人の確実に変わらざるをえない生活を自覚したら、あとはいかに快適にこころたのしく生活できるか、
オールジャパン・工夫です!
生活の工夫をかんがえる、やってみる。その満足感はひとを元気にする。
生きることをたのしむために。